杉原千畝・山本勘介・鉄道・交通に関する書籍専門の出版社


杉原千畝研究会

BS朝日「昭和偉人伝」で「杉原千畝」が放送されます。(2016年2月3日)

   BS朝日(5チャンネル)の「昭和偉人伝」で「杉原千畝」が放送されます。
   杉原千畝研究会も当番組に協力していますので、ぜひご覧ください。
   放送は2月3日(水)午後9時〜9時54分です。(1月20日の予定でしたが変更に
   なりました。)
 

杉原千畝の足跡をたどるツアー(ポーランド・東プロイセン編)(2015年5月)

   Tour2015
   杉原千畝が赴任した旧ケーニヒスベルクにて(現 幼稚園)

 

杉原千畝研究会の集い(2014年7月19日)

 新宿にて
   パーティ

杉原千畝の足跡をたどるツアー(ルーマニア・ドイツ編)(2014年6月)

   Brashov
   杉原が1944年から家族と共に疎開したポイアナ・ブラショフ(ルーマニア)にて

   Berlin
   ベルリンの日本国大使公邸前にて
 

「ザ・プロファイラー」「命のビザ」杉原千畝 

奇跡はなぜ起きたのか?
  

 NHK BSプレミアムで2014年2月5日21時〜22時に放映されました。
 

『杉原千畝とサムライたち』(命のビザを繋いだ奇跡)

  歴史街道11月号(PHP研究所)

 杉原千畝が発給した「命のビザ」を得たユダヤ難民たちに次々と
 訪れた苦難・窮状に手を差し伸べる日本人が居た。小辻節三であり
 根井三郎であった。杉原千畝の英断がバトンタッチされて奇跡が完結
 されたと言える。
 特別対談「杉原、小辻、そして・・・なぜ命のビザのリレーが実現したのか」で
 杉原千畝研究会代表の渡辺勝正が俳優で作家の山田純大氏との対談に
 登場しています。
   RekishiKaido
   RekishiKaido

ミュージカル『SEMPO』(2013年9月10日〜29日)
  杉原千畝研究会制作協力
  監修 杉原千畝研究会代表 渡辺 勝正

 第二次世界大戦時、遠い国リトアニアにおいて、外交官・杉原千畝は
 訓令に反して無償の愛を難民に注ぎ、ビザ発給を英断した。
 そして国際的視点から、世界に信頼され、愛される日本であることを
 切望した。
 「愛と人道」を貫いた信念の人・杉原千畝。
 人の心に強く迫る『SEMPO』は、多くのことを学ばせてくれる
 真実の「愛」の物語である。
   Musical

東京新聞(2013年8月14日)第一面で渡辺代表が麻生発言について語る

 麻生太郎副総理兼財務相が改憲に絡めて戦前のナチス政権を引き合いに出した発言
 に関連して、渡辺代表は杉原千畝の行動と比較しながら麻生氏の発言の問題点について
 「世界から信頼される国になろうとした杉原の行為を無にした」と批判しました。
 同日付けの中日新聞にも同様の記事が掲載されました。

杉原千畝研究会の集い(2013年6月23日)

 新宿・スンガリーにて
   スンガリー

杉原千畝の足跡をたどるツアー(旧満州編)(2013年5月)

 5月11日〜16日、研究会員11名で、杉原千畝の足跡を訪ねた。杉原が17年間過ごした
旧満州(中国東北部)のハルビンなどは、当時の面影をそのまま残していた。
 ハルビン
   ハルビンの中心街キタイスカヤにて

   ダイレン
   大連の旧満鉄総裁室
 

杉原千畝研究会の集い(2012年11月10日)

 ポーランドの菊地マルゴジャタさん(愛称マルちゃん)を囲んで(新宿にて)
   桜

天皇、皇后両陛下が、リトアニアご訪問

 ヨーロッパ5カ国を、訪問された両陛下は、5月26日(日本時間)バルト三国で、最後の訪問先となった、リトアニアの首都、ビリニュスに入られた。
 [天皇、皇后両陛下は、第二次大戦中にナチス・ドイツから迫害された多くのユダヤ人を救った外交官、杉原千畝の記念碑に立ち寄った。同国には杉原の記念館や、名を冠した通りがある。
 遺族は「両陛下のご訪問で、杉原の人道的行為が改めて報われた思い。本人もきっと喜んでいると思いますと話している。」・・・「今回、両陛下が訪問した記念碑は、01年に、母校の早稲田大学の寄贈で、ビリニュス市の河畔に建てられた。
 両陛下はアダムクス大統領夫妻とともに、リトアニアの外相の説明を受けた後、記念碑に歩み寄り、埋め込まれたビザの写真製版や、杉原氏の顔のレリーフにじっと見入っていた。
 この前に行われた昼食会でも、大統領は杉原氏が日本とリトアニアの間に、「外交業務を超えた特別な懸け橋」を作ったと述べ、「常にリトアニア国民の尊敬を集めている」と評価した。](朝日新聞 07.5.27より抜粋)

 同様の記事が、毎日新聞、読売新聞、日経新聞、東京新聞、産経新聞他、各地方新聞にも掲載された。

リトアニアより「杉原千畝顕彰切手」が発行された(04.6.19)

   杉原千畝顕彰切手

「杉原千畝サクラの会」の桜が咲いた(04.4.5)

 昨年6月「杉原千畝サクラの会」の会員によって、八百津町の「人道の丘公園」に植えられた桜(陽光)が、八百津町役場の管理のもと、土壌の悪条件を克服して、見事に咲きました。
   桜

「決断・命のビザ」朗読会(水澤心吾)

 4月1日、東京国際学において、水澤心吾による「決断・命のビザ」の朗読会が開催された。ビデオ上映と組み合わせた、約1時間の朗読会は盛況であった。4月26日、名古屋にて開催。
 今後、全国展開する予定。

「歴史に刻む杉原ビザ ・ リトアニアに生き続ける名外交官の魂」(渡辺勝正)

 杉原千畝を顕彰するため、一昨年の秋、リトアニアで桜の植樹が行なわれた。首都ビリニュス市の広々とした芝生のエリアは「杉原千畝・追悼・サクラ公園」と名付けられた。かくして遙かなる北国の地に、忽然と、日本人外交官を偲ぶ記念公園が出現した。
  (中略)
 外務省外交史料館における式典で、河野外務大臣は次のように述べた。「外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであります。故杉原千畝氏は、その大切さを示されました。このような素晴らしい先輩を持つことができたことを、誇りに思う次第です」
  (聖教新聞・文化欄 2003.8.10 抜粋)

「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」(山田養蜂場全面広告より)

  (前略)「私のしたことは、外交官としては間違ったことだったのかも知れない。しかし、それは人間として正しい行動だった」と生前、幸子夫人に語っている杉原千畝・・・
 85年にはイスラエル政府より、「諸国民の中の正義の人賞」という勲章を授与された。国境や民族を超えた一個の生きる人間としての勇気ある決断は、いつの時代にあっても崇高である。
  (朝日、読売、毎日新聞ほか、各地方新聞 2003・7・17〜 )

「千畝氏の偉業 桜に込め リトアニア人ら植樹」

 岐阜県八百津町の公園で28日、桜の植樹式があった。杉原氏が見せた人道への思いを後世に伝えようと、桜の植樹はリトアニアでも進んでいる。植樹したのは、市民グループ「杉原千畝サクラの会」。
  (中略)
 今回の植樹には、リトアニアの杉原記念館職員アウレリウス・ズィーカスさんや、赤塚新吾町長らが参加。杉原氏の功績をたたえる「人道の丘公園」内に2本の桜を植えた。渡辺勝正代表は「みんなで植えることができて良かった」と話した。
  (朝日新聞名古屋 2003.6.29 抜粋)

「人道の丘・桜植樹の旅」を終えて(「杉原千畝サクラの会」参加者感想文の中から)

 昭和10年ソ連より長春以北の北満鉄道が満州国に移譲された際、この協定の実質的交渉にあたったのが杉原千畝氏でした。私は昭和13年満鉄に奉職し、北満各地を廻りましたが、長春以北は沿線をはじめ、ハルピンその他、ロシアの色が色濃く残っておりました。今日は往時の事を思い乍ら、杉原氏の遺徳を偲び有意義な一日でした。日本の歴史や先人の功績を兎角否定し忘れがちな今日、こうした遺徳顕彰の会があること自体、まことに嬉しい。(埼玉県・瀬島利四夫)
 

 杉原千畝記念館での数々の出展物を拝見し、涙を押さえながら当時の軍政きびしい中、本国のビザ発行許可も得ることなく、人道的な愛、そしてそれを決断する勇気.・・・.どれだけ苦しみ抜いたことでしょう。国賊扱いもカクゴされていたことでしょう。
 リトアニアでの桜・植樹、そして千畝生誕地での植樹に参加し、只々感激しました。わが手にしたサクラ、これから大樹に育てる土、土こそ命です。そこに愛が宿り、成長することを祈っています。乞い願わくば、リトアニア(産)の木も、一緒に植樹されては如何ですか。(三重県・伊藤豊一)
 

 日本の原風景の中に生まれた千畝の原点をみる思いでした。是非また訪ねたいと思います。知的な集団の仲間入りをさせて戴きました。また、お誘い下さい。楽しかったです。(大阪府・中島邦彦)
 

 “この恵まれた美しい自然のなかで幼少時、育たれたんだなあ”と人道の丘に立って、余りにも偉大な杉原千畝さまを思う時、感慨ひとしお、胸が熱くなりました。参加させていただき感謝の気持ちでいっぱいです。桜の樹が成長していく姿の見られることを願っています。(匿名・A)
 

 素晴らしい場所に参加できて、良かったと思います。戦争中、戦争後と、大変な時期の資料を、多く集められたことに、(記念館の)関係各位のご努力に感動いたしました。桜の成長に負けず劣らず、人々の和(輪)がますます拡がりますように。今後も多くの人に語りかけ、杉原千畝氏の人道的業績を人々に知らせて欲しい。参加者の一人として、いろんな集まりに参加したときに話していきたい。(東京都・佐藤正義)
 

 感動の一言に尽きるすばらしい旅でした。杉原千畝氏の偉業は、私たちに日本人としての誇りを与えてくれると同時に、人命を軽んじる殺伐とした現在に、反省を求めているような気がします。今はやりの物見遊山的な格安ツアーでは味わえないオリジナル企画で、きめ細かい心遣いに幹事さんのご配慮が感じられ、感謝しております。霧雨の千畝氏生誕の地にたたずむとき、ビザ発給の英断の源がここにあったのだと実感しつつ、この感動を多くの方に伝えていきたいという思いに駆られました。次回は是非とも主人を誘って参加し、杉原氏について勉強していきたいと思っております。(埼玉県・山根光子)
 

 第1日目、いい旅をさせていただきました。感謝致します。雨のせいでしょうか、青い棚田の風景が、一段と目に美しく、山奥なのにやさしく、のびやかな眺めでした。博愛の人、千畝先生は、このようなところで育まれたのだと、感じ入りました。ユダヤの格言に“一人の生命を救うことは、世界を救う”とあります。いのちの大切さを改めて思いました。リトアニアでの桜の植樹も続けられるそうですが、今後も、人道の丘に桜を植えてください。ありがとうございました。(匿名・B)
 

 一度来てみたい、と思っていたことが実現して、大変幸甚に思います。リトアニア桜植樹の旅に、出席させていただいてから3年。種々勉強でき、今の時代に大切なことが沢山あることが分かり、後世に伝えて行きたいと思います。木の香りがプンプンする中でのビデオ、とても良かったです。素晴らしい一億創生でしたね。(東京都・常盤紀子)
 

 杉原千畝記念館を見学できて、感激です。生家や、北山の棚田なども、ユニークな企画でよかった。ふるさと創生基金で、「人道の丘公園」をつくった、八百津町に拍手したい。(埼玉県・長谷部晃)
 

 勤勉さが、如実に現れている棚田に、これが日本だ、と改めて深い想いにひたる。応対して下さった、岩井錠衛様ご家族の態度にすがすがしさを感じ、美しい棚田の広がる風景に相まって、心が洗われた。懸命な努力を続け、杉原氏の崇高な精神を伝え続けてください(茨城県・佐藤仁)
 

 千畝さんのお人柄に接するたびに、偉大さが良くわかります。今回、参加させていただき、人道の丘は千畝さんの業績を紹介するには、誠にふさわしい環境。大変素晴らしい所に連れて来ていただいたと、感謝しております。今度は、家族、特に子どもたちと一緒に来たいと思います。
 テロや戦争が、世界のどこかで起こっていまる世の中。若い人たち、子どもたちに、是非、千畝さんを通して、命の大切さを学んでもらいたいものです。棚田の素晴らしかったこと・・・。企画された方々、お世話様になりました。(東京都・石郷岡芳子)
 

 渡辺さんの著書を読ませていただいて、通り一遍の千畝像から、より深く千畝氏の姿を知ることができました。八百津が千畝の原点であり、千畝精神の原点でもあると思いました。また、訪れてみたいと思います。(東京都・松本雅枝)
 

 人道の丘では、もう少し時間をたっぷりとって、資料やビデオ、写真などもゆっくり見たかったのですが、残念です。出来ることなら、二日間にわたって、人道の丘公園に行ってもよいと思いました。年一回の「人道の丘・桜植樹」の旅の企画をしていただければと思います。(東京都・竹内美恵子)
 

 この会には、初めて参加させて頂きました。オリジナルの企画で、楽しい思い出深い旅となりました。今回は、どちらかというと年配の方が多く、それなりに楽しい旅でしたが、千畝さんをもっと知ってもらう意味から、若い人たちにも積極的に参加してもらいたいものです。(大阪府・植田省吾)
 

 以前、杉原千畝さんのテレビを見て大変感激しました。今回、東京の長谷川さんからのお誘いで、喜んで参加させていただきました。記念館、生誕地を訪問し、色々お話を伺ったり、パネルを見ることが出来て嬉しい限りです。記念館において、不眠不休で食事もとらずに旅券発行のサインをされたとのパネルの前では、胸がジーンときました。今の外交官にはみられない事だと思います。こんな大偉業をされた方をもっと多くの人々に広めて欲しいと思います。(大阪府・上羽薫)
 

 杉原千畝の人間形成に於ける、基礎的なものを見ることが出来た事は、本当に良かったと思います。楽しく、意義ある旅でした。(千葉県・小野紘子)
 

 心配していた空模様も霧雨程度で、無事に植樹が出来たことを嬉しく思います。千畝のふるさとの山と川、棚田の美しい季節に訪ねることができ、お元気な岩井錠衛さんご夫妻にもお会いできて良かった。
 オリュさん、渡辺さんのお話と、「千畝ワイン」の渡会さんの、平和への思いが胸を打ちました。杉原千畝を通して、大勢の方々と交流できたこと、八百津町のシンボルとして、人道の丘公園の果たす役割の大きさを、改めて感じたことなど、印象深い旅となりました。記念館関係者の方々のご配慮に、御礼申し上げます。サクラの咲く頃に、また、訪ねたいと思いますので、企画された方々、宜しくお願いします。(匿名・C)
 

 「花」は桜、人は武士」陽の光をあび、優しく人を包み込むように咲く桜に、来年また逢うことをドキドキしながら待つ心。それだけでも生き生き!人の人生を変えるほどの感動にめぐり逢い、感謝です。稲作は、日本の神事といわれ、千枚田は、先人の知恵により、陽の光をあび、月の光をあび、稲を育てます。その稲を食し、日本人の魂を育む棚田を目の当たりにして、感動いたしました。
 平和のワインの祝福を受け、その上に「みあれ」というもったいないほどの御神酒を頂戴いたし、感激いたしました。このご縁が和(輪)になって、早く世界中に広がりますように!(愛知県・有賀仁美)
 

 杉原千畝氏に関する脚本家、千畝ワインの製造者など、その人脈の深さに敬服しました。個人の旅ではとても体験できない貴重な体験ができ、感謝しています。リトアニアのお花見ツアーを楽しみにしています。植樹した桜のその後を、やはり見届けたいです。(愛知県・盛田百合子)
 

 いずれは・・・と思いながら、バルト三国から帰ってこんなに早く、思いがけず実現しました「人道の丘」訪問。ありがとうございました。できれば、もっとゆっくり、丘や、記念館で過ごして、山荘での語らいなどがほしかったと、残念です。とにかく、杉原千畝を日本中、世界中の一人でも多くの人に知っていただく活動ができれば良いと思います。(茨城県・黒沢マリ子)
 

 感動的なビデオ、お話に涙が出ました。記念館では時間が足りなく思いました。昭和村、犬山城を切ってでも、ゆっくりしたかったです。「人道の丘公園」あたりに宿泊施設などもあればよいと思いました。皆様のご活躍に感謝しております。自分でも少し勉強しなければと考えています。(東京都・庄司知栄子)
 

 とてもすばらしい感動の旅でした。多くの専門家の方による、それぞれのお立場でのお話は、とても勉強になりました。(東京都・高松民子)
 

 杉原様の偉大な功績が、今更ながら心にしみました。是非来年はリトアニアにも参りたいと思っております。皆様の博識には、頭が下がります。良い勉強になりました。(東京都・菅原喜代子)
 

 今回二度目ですが、個人で訪れたときと違い、町当局の対応の良さ、渡会さんの平和のワイン、清酒、一生で最初で最後の乾杯は感動でした。企画された幹事さんに感謝します。桜の成長を見守ると同時に、サクラの会を末永く発展させたいですね。(匿名・D)
 

 このたび人道の丘に植えた桜の樹が、来年には一輪でも花を咲かせてくれることを心待ちにしております。ところで杉原千畝氏の生誕地は、素晴らしい田園風景の中にあり、びっくりしました。棚田を近くで眺めたのは初めてで、トンボの飛んでいる光景に、昔日の思い出がよみがえってきました。
 杉原氏のビザ発行の件を知っている人は、まだ20パーセント程度ではないかと思いますが、ビザ発行がその後の人生にマイナスになることを予想しながらも、人道上発行した杉原氏の偉業に敬服します。今後も杉原氏の苦悩と偉大さに視点を向けて、杉原氏の母校第五中学の後輩として、活動していきたいと思っております。(愛知県・布目鐘)

「杉原千畝サクラの会」懇談会が開催された

 4月13日(日)、リトアニアの杉原千畝顕彰記念の桜植樹祭に参加した「サクラの会」の会員が新宿で懇談会を開いた。当日はリトアニアからの留学生、オリュさんはじめ、クリスティーナさん、ドナータさんを迎えて、関東地域の約50名が参加して、楽しく懇談した。
 リトアニアの植樹でご苦労された脇坂氏も急遽、愛媛より駆けつけられた。
 盛り上がりの中、サクラの会で八百津の「人道の丘公園」へ訪れようとの計画が提案された。「人道の丘公園」への旅は、6月にオリュさんも参加して行われる予定。

「今だから『杉原千畝』・・・劇団銅鑼によるソウル公演」(小田桐誠 記)

 (前略)舞台では、「命のビザ」をめぐる人間関係が、杉原夫妻に三人の領事館スタッフと2つのユダヤ人家族を軸に繰り広げられる。韓国を併合し創氏改名、強制連行を行い、いまだに従軍慰安婦問題や韓国人被爆者への賠償問題を解決できない日本の劇団による、勇気ある日本人外交官の物語が韓国の人たちにどう受け止められるのか。ちょつぴりハラハラしながら初日の公演を見た。・・・(中略)若者たちは幕が開くと食い入るように演者を見つめ、ハンカチを手にすすり泣いていた。
 観客はセンポ(千畝)の人道的な行為もあるが、ユダヤ人家族が背負わされた運命と家族の固い絆、互いを思いやる心に感動したのではなかろうか。・・・ (東京新聞 2003.4.12 抜粋)

「杉原サクラ街道」計画 <命のビザ>発給をたたえ、広がる友好の種まき」

 杉原千畝の人道的偉業をたたえル行事がリトアニア国内で進んでいる。
 名付けて「杉原千畝サクラ街道」づくり。同国政府と日本リトアニア交流協会が計画した。首都ビリュニスからバルト海を望むクライベタまで約300キロに点在する街を日本から寄贈するソメイヨシノで結ぶ。
 東京で記者会見したクジス駐日リトアニア大使は「わが国では、小中学校の歴史教育で 必ず杉原氏の勇気あふれる行動を学ぶ。毎年、杉原氏を顕彰するイベントが各地で開かれ、新聞やテレビも特集するので彼を知らない国民はいない。サクラ街道づくりで末永く記念し、両国の文化交流を深めたい」と抱負を述べた。 (東京新聞 2002.12.20 抜粋)

「<命のビザ忘れない>ユダヤ系米国人らロスに銅像建立」

 杉原千畝をたたえる銅像が米ロサンゼルスのリトル・トーキョーに建立され13日、除幕式が行なわれた。除幕式にはイスラエル、リトアニア両国の駐ロサンゼルス総領事や日本総領事館の国方首席領事らが出席。日本から招かれた杉原千畝の子息千暁さんは「感激している。父は同じ人間として助けたと信じている」と話した。 (産経新聞 2002.12.15 抜粋)

「日本のシンドラーで法廷論争」(ジョナサン・ワッツ記)

 (前略)杉原千畝に関する衝撃的な本(ヒレル・レビン著『千畝』清水書院)のユダヤ人著者が、今月末杉原の家族から東京地裁に提訴されるに及んで、その結果が注目されることになった。
 ボストン大学のヒレル・レビン教授は杉原氏の評判を汚したかどで、提訴された。日本では、名誉棄損などに関わる法的な争いは極めて稀であるだけに、この法廷闘争は当地で非常に目立つ事件となることが予想される。(後略) (ザ・ガーディアン紙・英国 2002.11.12 抜粋)

 ※第二回公判 11月28日(木)13:15 東京地裁 7055号室

「杉原千畝をたたえる新曲」(早大グリークラブ)

  (前略)杉原千畝氏の功績をたたえようと、男声合唱団の早稲田大学グリークラブが11月の定期演奏会で杉原氏にまつわる新曲を発表する。
 題名は「苦難の中の御子」。杉原氏ゆかりのリトアニアの音楽家が作曲。詩はラテン語の古い賛歌と古事記を引用した。「肉体と魂の力を出し切り、務めを果たすまで休むことなし」と、ユダヤ人を救うため、奔走した杉原氏を連想させるような内容だという。 (日経新聞 2002.10.25 抜粋)

「リトアニアとの絆」(JR西日本会長 井出正敬)

 (前略)当時の(カウナス)領事館がそのまま、“希望の家”と名付けられ、記念館となっていた。訪れたのは晩秋のころ。落ち葉がカサカサと風に舞い、何か人懐かしい気配がただよい、杉原氏へ救いを求めた人々の列がそこにあるかのような気分にもなった。
 記念館は、日本語学習の場になっているとのこと。(中略)
 彼らの勉強部屋は古びた本棚といくつかのイスと机が乱雑に置かれているだけだ。そして驚いたのは、本棚に並ぶ書籍の貧弱さである。それは戦後奇跡の復興を遂げ世界有数の先進国となった日本に、杉原氏へのあこがれを重ね合わせ、青春の志をバルトから遠く離れた我が国への留学にかける有志の青年たちの勉学に資するには程遠いものであった。(中略)
 帰国後、早速仲間を召集して本を集めにかかり、とりあえず、日本文学全集やら、国語辞典、各種歴史図鑑などを送らせてもらった。こうしたことを今後も可能な限り続けさせてもらい、両国の相互理解が深まることの一助となればと願っている。 (日経新聞 2002.10.25 <あすへの話題>より抜粋)

「杉原氏夫人の提訴は当然だ」(酒井加寿男 72歳 愛知県犬山市)

 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツに迫害されていたユダヤ人に、日本通過ビザを大量発給した岐阜県出身の外交官、故杉原千畝氏を題材にした著書に曲解や捏造があり、名誉を傷つけられたとして、妻の幸子さんが出版社を提訴した。
 著書は、米・ボストン大教授で歴史学者のヒレル・レビン氏の『千畝』で、邦訳は98年に清水書院から出版されている。ビザ発給当時の背景や杉原氏の判断などの記述で、三〇〇カ所以上にわたる事実と異なった記載があるという。
 私はかつて、渡辺勝正氏の研究書『真相・杉原ビザ』(大正出版)を読んでおり、今回の提訴はむしろ遅いと思っている。同書の「歪められた杉原の実像」という項目では、杉原氏の功績をトーンダウンさせようとする意図がうかがえる、と指摘している。
 内容についても『千畝』には誤記、誤認、誤解、捏造が多く、夫人はあまりのひどさに体調を崩されたという。
 高齢の夫人があえて提訴を決断されたのは当然で、真実が明らかになるのを切望する。 (朝日新聞・名古屋版 2002.8.21 <声>欄より)

「難民に<命のビザ>を与えた外交官 杉原千畝」(UNHCRニュース)

 (前略) ちょうど日本がドイツ・イタリアと三国同盟を結ぶ前の1940年7月、たくさんのユダヤ人がリトアニア領事館の周りに集まっていました。それは、激化するナチスの迫害と優勢なドイツ軍の進撃を逃れるため、日本を経由してアメリカなどに行こうとしているユダヤ人たちでした。当時、日本の通過ビザは十分な所持金や最終行き先国の確認など一定の基準を満たした人のみに発行されており、領事館に来たユダヤ人の多くはその基準を満たしていませんでした。しかし、このままでは彼らの多くが殺される可能性があると、杉原は規則と良心の狭間で悩んだ末、とうとう独自の判断でビザの発行を決心します。
 (中略) 1969年、杉原は彼の行動によって救われた一人、イスラエルのバルハフティク宗教大臣より勲章を授けられたのでした。 (国連難民高等弁務官事務所「難民」2002年3号より抜粋)

「杉原千畝研究本<記述に曲解>遺族きょう出版社提訴」

 杉原千畝の遺族は十四日、杉原を題材にした本の記述に曲解やねつ造があり名誉を傷つけられたとして、本を出版した清水書院と同社社長を相手取、出版差しめと一千万円賠償を求める訴訟を東京地検に起こす。この本は原書が米国の著名な出版社から発刊され、一九九八年夏に邦訳が出た『千畝 In Search of Sugihara』(米ボストン大ヒレル・レビン教授著)。提訴する杉原の妻、幸子さん(89)は、原書に対しても訴訟を検討する。
 訴状によると、同書は、杉原が個人の判断でビザを発給した事実を曲げ、「外務省はビザ発給の事実を知っていた。杉原はなぜ政府に背いて行動したと主張しているのか。英雄になりたくて虚偽の主張をしているのか」などと著述。このほかにも三百か所以上にわたって、事実と異なる記載や曲解、ねつ造があり、杉原夫妻の名誉を著しく棄損と主張している。
 『千畝』の原書は参考文献として引用されることがあり、杉原研究者の間でバイブル的な存在になっている。幸子さん側は「関係者に十分な取材もしていない。史実に反して学術文献を装ったものが独り歩きしているのは耐えがたい」と訴えている。
 これに対し清水書院側は「事実誤認があれば次回の印刷の際、直そうと準備していた。名誉棄損となれば原著者がかかわってくる」と話している。 (2002年8月14日 読売新聞朝刊より抜粋・同件については14日東京新聞、日経新聞夕刊15日毎日新聞、 THE DAILY YOMIURI に掲載)
 
 ※なお、この件については、1998年8月、10月の2度にわたり杉原家から、また、弁護士を通して2001年5月、6月に清水書院に誤りを指摘し訂正を申し込んだが、適切な措置が講じられなかった。

★★杉原千畝を研究される方に ヒレル・レビン教授著『千畝』を追及★★

 昨今、杉原問題に関心が深まり研究する方が増えてきた。それに伴い1998年の既刊書である『千畝』(ヒレル・レビン著、諏訪澄、篠輝久監修・訳、清水書院刊)に対して、当「杉原千畝研究会」へ、数多くの疑問や矛盾点の問い合わせが寄せられている。
 卒論や博士論文に杉原テーマを扱かう人や、「私は歴史家ですから、すべて実証的に研究してきました。」(1998年9月5日・東京新聞)という著者の言葉と教授の肩書を信じて、間違った知識を得てしまった人から、怒りの声が挙がっている。
 すでに『真相・杉原ビザ』で、重要な間違いの一部が紹介されてはいるが、誤記、誤認、曲解、捏造、名誉毀損などは500箇所を超える。さらに本書を詳細に見ていくと、問題箇所は1000を超える。
 今後、杉原問題を研究される方に、『千畝』が歴史書として如何に危険な書であるかをご理解いただき、真相追究の一助になればと思い、未公開の問題箇所を主に、順次紹介していきたい。(文中の( )は研究会で補足したものである)
 なお、名誉毀損の部分は都合により、後日まとめて公表させていただく。

★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第15回)

×「千畝自身の回想記には、すでに、この<非アーリア系ドイツ人W・グッジ>は登場している・」(P310)
◎グッジはアーリア系ドイツ人である。正確にいえばドイツ系リトアニア人である。このことは千畝手記に記載されている。
 

×「千畝の<善意のの陰謀>は、神学校の学生とナチスのスパイの両者を巻き込むことになる・・・。」(P312)
◎著者は千畝の人道的な行為を陰謀という言葉で表現している。この表現で杉原テーマに取り組む著者の姿勢がいかなるものかを窺い知ることができる。善意の陰謀とは意味不明である。
 

×「小野寺信陸軍少将は、一九四〇(昭和十五)年当時は大佐で、スウェーデン公使館付き武官として、ヨーロッパでの日本情報機関の一角をになっていました。彼はリビコフスキー(ペーター・イワノフ)とともに、上の方から、あなた(千畝)の救出活動(ユダヤ人にビザ発給)の端緒をつけました。・・・」(P322)
◎千畝のユダヤ人救出は1940年7月から8月末である。当時、小野寺はまだ日本にいる。スウェーデンに着任したのは1941年1月末で、あの事件より半年も後のことである。また、リビコフスキーと小野寺は着任当日が初対面であった。カウナスの事件と小野寺たちとは無関係である。小野寺夫人の著書で確認。
 

×「ユダヤ人が満州経由で日本に行けると、あなたが信じた根拠になったかもしれません。」(P323)
◎日本領事館発給の杉原ヴィザは日本を通過させるものであって、満州国を通過させるのもではない。杉原ヴィザにも、ウラジオストク経由と書き込まれている。日本の在外公館が満州国通過のヴィザは出せない。
 

×「もう一度、お聞きします。杉原さん、あなたは何をしたのですか。あなたご自身の言葉を思い出してください。次の言葉はコラブ・ザブリック(ポーランドの歴史家)宛てに書かれたものです。<8月のある朝早く、カウナスの領事館の外は異常にざわめいていた。人々がたまり、 大声で喋っていた。・・・>」(P327)
◎この資料は元ポーランド情報将校のリビコフスキー(ペーター・イワノフ)の要請に応じて、千畝が1970年代にロシア語で書いたものである。これは現在ポーランドの軍事博物館に保存されているが、なぜか著者は全く同文のものをコラブ・ザブリック宛という。千畝が見ず知らずのコラブ・ザブリックなるものに、機密事項だったものを簡単に書き渡すことは絶対にない。この資料については1994年にポーランドの学者エバ・ルトコフスカ女史が研究を英語版でも発表している。ほとんどこの研究書を流用したに過ぎないのに、あたかも新資料を発見したかのように記述している。
  (次回につづく)

★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第14回)

×「千畝は、一九四〇(昭和十五)年春ごろ、ナチス側から疑わしい過去を持つと見られる二人のポーランド人、クバとペルツと組んでいた。やがて彼(千畝)は、二人が白系ロシアの血を引いていると偽って、満州国旅券を取得するよう手配する。」(P300)
◎クバとペルツに満州国旅券の手配はしていない。2人には日本海外旅券を千畝が発給している。満州国旅券を取得したのは2人の上司のペーター・イワノフである。
 

×「二人(クバとペルツ)は満州国旅券を使い、ヨーロッパ中から情報を収集し、ロンドンの亡命中のポーランド政府に送る。」(P300)
◎2人は満州国旅券は持っていない。また情報はスウェーデンにいる2人の上司であるペーター・イワノフにわたり、その後イワノフ経由で、ロンドンに送られていた。
 

×「それ(2人がヨーロッパ中から収集した情報)は、ワシントンとモスクワに届けられたはずである。」(P300)
◎ポーランド人の2人が収集した情報を、敵国であるソ連に届けるはずはない。また当時アメリカは参戦していないので、ワシントンにも送られていると断定できない。
 

×「私は、ドイツ外務省で、この当時のスパイ監視の記録を発見した。それは間違いなく、杉原一家がベルリンを通過した一九四〇年十月のものだった。」(P303)
◎それは間違いである。すでに杉原一家は9月12日にベルリンからプラハに着任している。本当にこのような記録があるが疑問である。
 

×「(カウナスのドイツ公使館員の報告書によると)通称クバとペルツには日本国籍が与えられているが、彼らをわが諜報機関では親イギリス派と見ている。」(P303)
◎クバとペルツには日本国籍は与えられていない。ナチに占領されたポーランド人が反ナチであり、ポーランド亡命政府を受け入れてくれたイギリスに信頼を寄せるのは当然である。諜報機関がこのような低レベルの報告をするはずがない。記録資料名を明記すべきである。
  (次回につづく)

★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第13回)

×「この事件(水晶の夜)を境に、日本の対ユダヤ政策も、曖昧のままでは済まされなくなった。伝えられるところでは事件1か月後、首相、陸相、海相、外相、蔵相の五大臣が出席し、ユダヤ人移民問題を討議した。五相会議である。」(P265)
◎五相会議では、移民問題ではなく、ユダヤ人に対する扱い方について討議したのである。その結果、他の外国人と同等に扱うが、利用価値のある者のみ招致するというものである。五相会議の「猶太人対策要綱」を見ればも分かるように移民問題には、一切触れられていない。
 

×「ここ(「猶太人対策要綱」)に書かれた範囲内でユダヤ人にヴィザを出すことは正当ということになった。とにもかくにも、日本の現場の領事たちに<歩み出す順序>がさし示されたのである。」(P268)
◎ユダヤ人にヴィザを発給することは、条件完備であれば違法性はなく、在外公館では以前より行われている。「猶太人対策要綱」によって正当化されたものではない。
 

×「しかし、日本側は別の形で取引することを考えていた。もしガーソンなり、その会社が、アメリカのマスメディアで日本礼賛をしたら、ユダヤ人にヴィザを出そうというのだった。」 (P268)
◎日本礼賛がなくとも、発給条件さえ整っていれば、ヴィザはすでに出されている。これを取引材料に使うはずはない。
 

×「その一年間(1940年春〜41年春)、ドイツはユダヤ人狩りに専念していた。その段階では、暴力と大量殺戮ではなく、移民に策をとっていた。だから、わずかだが脱出口はあった。・・・そのひとつがカウナス領事館だった。」(P280)
◎当時、ドイツ国内のユダヤ人は国外追放されていたが、カウナスに押し寄せたのはほとんどがポーランドのユダヤ人である。ポーランドのユダヤ人はゲットーに入れられ労働力確保のため、国外脱出は許されなかった。脱出口などない中を、夜陰にまぎれまた荷馬車の中に隠れて逃亡したりと、命がけであったことは助かった人々の証言でも明かである。移民策にしたがえばこれほど過酷な逃避行をしなくても済んだはずである。
 

×「すでに何千人ものドイツ系ユダヤ人が、新しい故郷を求めてウラジオストクに向かった。」(P294)
◎ドイツ国内には満州国の在外公館があり、満州国通過のヴィザを発給していたので、ほとんどのドイツ系ユダヤ人はウラジオストクに向かったのではなく、満州国通過であった。
  (次回につづく)

★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第12回)

×「(一九四〇年四月、千畝が電報を打ったころ)ここ(リトアニア)はユダヤ人にも、戦争から逃れようとした人にとっても理想の場所だった。そのため、不動産の価格は上がっていた。投機をやる地主なら、土地を細分化して一財産つくれた。」(P256)
◎前年より、リトアニアにはソ連軍が大量に駐屯しており、ソ連軍がフィンランドに侵攻したりと、バルト三国はソ連の影響下に置かれ始めていた。ソ連の支配下になれば土地は国有化される。このような懸念がある時期に不動産の価格は下がる一方である。前出のガノール氏の両親が当時カウナスの不動産を売りに出したが、希望価格の五分の一にしかならなかったと、手記でも述べている。
 

×「もし地主が、もっといい借り手を見つければ、千畝は貸家から閉め出されたかもしれない。千畝はその事情を知っていたので、貸借契約や増築計画をくわしく電報で打ってきたのだろう。」(P256)
◎これは電報ではなく、千畝直筆の書簡である。また書簡の内容は千畝に家を貸すことを望んでいるというものである。
 「先方モ当方ヘノ貸与ヲ希望スル処・・・」「家主トシテモ時局不安定ノ折柄外国公館ニ貸与スルハ得策ト・・・」(外交史料館史料確認)
 

×「これほど多くのリトアニア人が、よりによって日本に行きたがるなどと誰が予測できたろう?。」(P259)
◎杉原ヴィザを受けたのはのほとんどはポーランドのユダヤ人であり、リトアニア人ではない。杉原リストの範囲で見ても、2139通中、リトアニア系ユダヤ人は106通のみである。
 

×「(千畝は)どういう基準でヴィザを発行したのか。その早い時期のヴィザ発行は、翌年夏の大量発行に、どう結実したのか。その答えを引き出すのに、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーズ(MGM)のカウナス代表A・カッツの場合で検討してみよう。」(P259)
◎カッツの場合と杉原ビザ発給は根本的に違うので、カッツで検討しても無意味である。カッツの場合は野村外相からヴィザを発給するようにとの電報を受けているのに対し、杉原ヴィザの場合は、松岡外相より条件不備者には、ヴィザを発給ならぬとの訓令を受けている。
  (次回につづく)

「杉原千畝」パネル・ディスカッション」(横浜にて)

 7月27日(土)、横浜市民活動センターにて、パネル・ディスカッションが開催された。パネリストは白石仁章氏(外務省・外務事務官)、杉原誠四郎氏(武蔵野女子大学教授、渡辺勝正氏(杉原千畝研究会代表)で、杉原テーマの研究発表が行われた。
 *白石氏《外交史料の「ユダヤ人対策要綱」について、誤った解釈がなされていることに反論し、ビザ発給に対する条件などについて解説》
 *杉原氏《第2次世界大戦における外務省本省、ワシントン組、ベルリン組を通じて、外務省の体質について批判》
 *渡辺氏《杉原ビザ発給の経緯と、違反ビザがなぜ有効だったかを説明し、杉原の英断に対する河野外相の謝罪と顕彰について説明》
 ディスカッション後、活発な質疑応答が行われ、盛会であった。
 なお、八百津出身の方から「杉原は悪いことをして外務省を馘になった。悪い人だったらしい」と以前、母親から聞いていたとの発言に、参加者一同は驚いた。
 今後も杉原千畝の功績を伝えていこうということで散会した。(グループファニックス主催  ティグレ・杉原千畝研究会 協力)

「杉原千畝さん顕彰の新曲が・・・」(早大グリークラブ 松本数馬)

 フィンランドとバルト3国の演奏旅行の大きな目的である「日本のシンドラー」杉原千畝さんを顕彰するリトアニア・カウナス演奏会では、会場が満席になり、アンコールとして「早稲田の栄光」を歌い始めると、思いがけず観客の皆様にスタンディングオベーションを頂くことになりました。
 杉原さんの人道的な行為が生んだ日本とリトアニアの架け橋、その強さ、大きさを感じた瞬間であり、言葉では伝えられないほど、感動的な出来事でした。(中略)
 今年11月24日の定期演奏会では、この演奏旅行を契機としまして杉原千畝氏を顕彰する新曲を、リトアニアの作曲家ヨーナス・タムリオーニス氏に委嘱し、初演いたします。(早稲田大学グリークラブ 帰国報告書より)

★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第11回)

×「杉原リスト四五五番のゾラ・バルハフティクが、その一人である。私はエルサレムの中心部にあるアパート、ユダヤ法の書籍がぎっしり詰まっている本棚に囲まれた部屋で、彼にインタビューした。・・・・・バルハフティクは私に語った。」(P227〜P231)
◎4頁にわたってのインタビュー内容が、バルハフティク著『日本に来たユダヤ人』(英語版あり)の文章と全く同一である。大量引用にすぎない。またアパートを訪れた数人の証言者によると部屋は本棚に囲まれていないとのこと。インタビューは行っていないと言わざるを得ない。
 

×「彼(ソリー・ガノール)は六十歳代で、短躯だが筋肉質な身体で、・・・・・・海が好きで、その顔は陽に焼け、何十年も海を渡って商売をしてきた商人を思わせるものだった。・・・・・・」(P242〜 P247.)
◎ガノール氏はナチ収容所育ちで栄養失調のため短躯、船員だったので陽に灼けていると想像して書いたのだろうが、反して彼は長身で、筋肉質でもなく色白である。インタビューしていたら間違えるはずがない。ガノール著『日本人に救われたユダヤ人』(英語版あり)の五頁にわたる大量引用である。この件でガノール氏は、レビン氏に対し立腹しているとのこと。
 

×「千畝は音楽にも熱中した。・・・ヘルシンキの湖畔の優雅な領事官邸で、カウナスのバイツガンタス街の家で、幸子とともに、そして最後の鎌倉の家で、彼は何時間もピアノを弾いた。」(P251)
◎カウナスの領事館にはピアノはなかった。幸子夫人にインタビューをしていれば間違えるはずがない。またヘルシンキは領事館ではなく公使館である。
 

×「一九四〇(昭和十五)年四月六日、カウナス発、電報五八号、杉原領事代理外務大臣宛  領事館建物賃貸契約更新の件」(P255)
◎このような電報は存在しない。この件は杉原の自筆で便箋四枚に書かれ、領事館の角印が捺印されている書簡である。原資料として扱う場合は、正確を期すべきである。正しくは「普通第五八号 在カウナス領事代理杉原千畝 外務大臣有八郎殿 当館家屋借入契約更新ニ関スル件」
  (次回につづく)

★レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第10回)

×「一九四〇(昭和十五)年春には、リビコフスキー大佐はラトビアのリガにもどり、そこで〈日本公使館付き武官〉と協力して〈情報本部〉をつくった。しかし、それは三か月しか持たなかった。ソ連が六月十五日、ラトビアを占領したからである。そこでリビコフスキー大佐は、駐スウェーデン日本公使館のストックホルム事務所にもぐり込んだ。そこには公使館付き武官・小野寺信陸軍大佐がいた。」(P215)
◎当時小野寺はまだ日本におり、翌1941年1月27日にストックホルムに到着した。また、公使館の事務所ではなく、日本陸軍武官事務所にもぐり込んだのである。
 

×「千畝とこの将校たち(樋口季一郎、山脇正隆)は、長い満州時代を通じて旧知の間柄だったからだ。・・・」(P217)
◎千畝は1935年7月初旬(実際には春)満州から帰国。樋口は同年8月中旬にハルピンに着任。樋口は1925年ポーランド公使館付き武官、1928年からハルビン行きまでは国内配属。千畝と樋口の接点はない。この件に関しては千畝自身メモに書き残している。
 

×「(1939年10月11日)ソ連が、ビリニュスとその周辺地域リトアニアに返還されると発表した。カウナスのキリスト教住民は彼ら流に・・・つまりユダヤ人を殺して、それを祝った。」 (P218)
◎リトアニアのカトリック教徒とユダヤ教徒は当時反目していたが、ビリニュス返還に関して、なぜユダヤ人という理由で彼らを殺したのか。そのような事実はない。リトアニア人がナチに協力してユダヤ人狩りをしたのは、1941年6月の独ソ戦でナチがリトアニに侵攻した後のことである。
 

×「ウルビダイテ夫人はいう。はじめて千畝にあったとき、彼女は十九歳で、家族とともにカウナスに着いたばかりであった。」(P220)
◎ウルビダイテは生涯独身で夫人ではない。また兄妹二人だけで、千畝が領事館を開設する以前から3階に住みついていた。秘密保持のために3階まで借りたかったがを断念した。なお、当時彼女は22歳であったと生前語っていた。
  (次回につづく)

「責任をとらない外交官」(長谷川煕)

 ・・・日本の外務省も、誰もが無能だったわけではない。
 62年前の1940年夏、リトアニアのカウナスに駐在した杉原千畝領事代理は臨機の判断で、独ソから逃れるユダヤ人などの難民、亡命者に、記録されている限り、計2139通の日本通過査証(ビザ)を発給し、命を救った。
 外国人入国令の条件を満たさない者には通過ビザを出すことも外務省は訓令で禁じたが、それを無視した。この行為は救われたユダヤ人たちによって広く知らされ、世界に人々の心を揺さぶった。
 在北京日本大使館、在瀋陽日本総領事館は、杉原領事代理の逆をやった。
 ・・・杉原氏や条約改正に表れた近代日本の誇りうる伝統は、外務省の出先、本省、小泉首相にも受け継がれているようには見えない。(『AERA』2002.5.27号 「日本の外務省の巨大な嘘」より抜粋)

★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第9回)

×「一九四〇(昭和十五)年五月にリッベントロップが、これ(ナチスとソ連の思いもよらぬ接近)を口にしたとき、大島は不機嫌になり聞くことを拒絶した。」(P206)
◎1940年5月には大島浩はドイツにいない。また、独ソ不可侵条約は前年の8月23日すでに締結されている。
 

×「ポーランドと特別な関係を持つ日本は、ヒトラーの侵攻をやめさせるべく、最後の瞬間まで、ドイツ・ポーランド間の条約締結に奔走していた。」(P206)
◎この時期の独ポの条約とは何か。全く意味不明である。歴史的にみて日本が独ポ間の条約締結に奔走した事実はない。
 

×「九月十五日(1939)、ソ連は不可解にも休戦を呼びかけてきた。」(P209)
◎9月15日は(ノモンハン)停戦協定が結ばれた日である。
 

×「ナチスは、・・・当分はバグ川でとどめることにした。それは、いま千畝が住んでいるところから、ほんの数キロ西の地点だった。」(P210)
◎カウナス領事館から数キロ西の地点にバグ川はない。バグ(ブグ)川はポーランドに位置し、カウナスからは200キロ以上離れている。
 

×「九月一日、ナチスとソ連がポーランドを攻撃してから・・・」(P210)
◎9月1日はドイツ、17日にソ連がポーランドを攻撃した。同時攻撃ではない。
 

×「一九四〇(昭和十五)年五月、フランスがドイツに敗北するときまで、パリはポーランド亡命政府の作戦基地だった。」(P215)
◎フランスが敗北したのは1940年6月14日。ポーランドの亡命政府は前年の1939年11月、すでにパリより西南300キロのアンジェールに移されている。
  (次回につづく)

杉原千畝の良心を思い出せ (ピーター・タスカ)

 「瀋陽事件」に対する国内外の反応をみていると、16年前に亡くなったある人物を思い出す。20世紀に世界的な名声を得た唯一の日本人外交官、杉原千畝のことだ。後輩たちの行為がメディアや国会で大問題になり、世界中のテレビで繰り返し報道されたことを、杉原はどう思っているだろうか。
  ーー 中略 ーー
 「瀋陽事件」は日本の象徴
 

 杉原千畝が「悪い外交官」だったことはいうまでもない。杉原は上司の指示を無視し、大切な同盟国の敵を助けて国益に背いた。適正な手続きを経ずに、大量の外国人を日本に入国させた。
 それとは対照的に、瀋陽総領事館の日本人職員は「いい外交官」だ。彼らは上司の指示を守り、所属する組織に忠実だった。中国の武装警官の帽子を拾ってあげたことからわかるように、並はずれて礼儀正しく、職場を清潔に保つことにも熱心だった。
 難民の受け入れに消極的な姿勢も、政府の政策と国民感情の両方にかなったものだ。彼らはメディアや政治家に酷評されているが、実際には日本人の誰一人として、難民の受け入れを増やしたいとは思っていない。日本の難民受け入れ数は先進国のなかで飛び抜けて少ないにもかかわらず、である。
 「不審な外国人」を日本に入れないよう懸命に努力した彼らは、常識に沿って行動したにすぎない。その結果、人命が失われるとすれば不幸なことだが、それは自分たちの責任の範囲以外なのだ。
 本音の部分では、私たちの大部分も瀋陽の「いい外交官」たちと大差はない。政治家やテレビ番組の司会者、雑誌のコラムニストも含め、どれだけの人間が上司や一般国民の「常識」に逆らえるだろうか。マニュアルを投げ捨て、良心に従って行動できるだろうか。
 杉原のことを思うとき、誰もが居心地の悪い気分になるのはそのためだ。だからこそ、杉原の行動を忘れてはならないのである。(『NEWS WEEK』 2002.5.29 コラム・オン・ジャパンより抜粋)

「〈官勢〉いや増すばかり」(堺屋太一・加藤寛・渡部昇一・鼎談)

 「外交」を見失った外務省
 

 ・・・・・・(前略)
 堺屋「外交事務にまつわることを一切やらないのが制度的になっています。彼らが腐心するのは、開戦時の野村大使の件でもお分かりのように、外交官の特権を守る、いわば共同体を守ことがなりよりも重要なのです」
 渡部「かつて外務省には杉原千畝という外交官がいました。戦争中にユダヤ人たちへ「命のビザ」を発給した人物ですが、いまでもイスラエルでは英雄扱いです。ユダヤ人に親切だったことは、日本がヒトラーと重要な一線を画していたとになり、それを戦後、世界中にアピールできることは、大きな外交資産だったはずです。ではなぜ、戦後にこの杉原千畝をアメリカ大使に起用するぐらいの度量がなかったのか。全く外交センスゼロです。
 結局、杉原千畝は戦後に任地のルーマニアから帰国直後に外務省を馘になってしまう」
 加藤「杉原千畝を馘にしたのは曾野明というキャリア外交官ですが、彼らがかんかんになって怒った。外務省の中枢からみれば、勝手にビザの発給をした人物を顕彰することなど許せなかったのでしょう」
 堺屋「特権を死守したい外務省にすれば、杉原千畝という人は共同体の掟を破った人なのです。だから懲戒免職にして、四十年以上も村八分にしつづけた。名誉回復したのはわずか二年前、二〇〇〇年のことです」
 渡部「しかも彼は、いまでいうキャリア、エリートではなかったから」
 加藤「そういった病理ともいえる風習が、戦前から今に至るまで外務省に蔓延しているのはなぜか?・・・」(後略) (『諸君!』6月号より抜粋)

「杉原千畝はいないのか」中国瀋陽亡命者連行事件

 妊婦や子供が引きずり出されるのを黙認した日本総領事館職員らは杉原千畝元外交官の偉業をご存じないのか?
 1940年、リトアニアで領事代理を務めていた杉原は、外務省の命令に逆らって、六千人を越えるユダヤ人にビザを発給し続けた。
 〈ビザを求めるユダヤ人たちが大挙して領事館に押し寄せてきたのは7月18日の早朝でした。ナチスに追われた彼らは日本を通過してアメリカなどに逃げようと考えていたのです。(中略)外務省から「発給してはならぬ」という返事が来たとき、すでに心は決まっていました。千畝は朝から晩まで昼食をとらずにひたすらビザを書き続けました〉
 〈主人は大使にはなれなかったけど、外交官としての役割は十分に果たしたのではないでしょうか〉(杉原未亡人の回想録より)
 今の外務省に“外交官”といえる職員が何人いるのだろうか。(『週刊文春』5月23日号より抜粋)

「<ムネオ名誉館長>解職に」

 「杉原千畝記念館名誉館長解職に」 (朝日新聞2002.5.8)
 岐阜県八百津町は7日、町営施設「杉原千畝記念館」の名誉館長だった鈴木宗男代議士に対し、「解職」を通知したと発表した。2日に鈴木氏に文書を送ったという。

★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第8回)

×「一九三九年夏、満州国とソ連国境で、日本軍とソ連軍の衝突が起こった。ノモンハン事件である」(P191)
◎ノモンハン事件とは、満州国とモンゴル国の国境・ノモンハンで外モンゴル兵に日本軍が発砲したのが始まりである。
 

×「千畝は、ヘルシンキからカウナスへの転任について、ポーランドの抵抗運動家R・コラブ・ザブリクへの手紙で記している<・・・カウナス領事館には武官が全然いなかった・・・>」(P195)
◎ザブリク宛という手紙を本書では、数カ所において取り上げているが、これは現在ポーランド軍事博物館に保存されている、元ポーランド情報将校リビコフスキー宛のレポートと全く同じ内容である。戦前、協力関係にあったリビコフスキーの要請を断り切れず、千畝がロシア語で書いた10枚のレポートは存在するが、元外交官が見知らぬ者に戦後とはいえ、機密事項を軽々しく書くはずがない。日本、ポーランドの学者もこの手紙の存在を否定している。
 

×「(リトアニア)首都カウナスに領事館設置の交渉を行い、一九四〇(昭和十五)年七月十二日、外務大臣・有田八郎に報告している」(P196) 
◎前年の1939年7月20日、千畝はカウナス領事館開設の指示を受け、その年10月には領事館を開設している。
 

×「完璧な外交官でもなく、かといってただの市民でもない杉原千畝の起用(リトアニア領事代理)は、ちょうどいい妥協だった」(P196)
◎千畝は満州時代に、北満鉄道譲渡交渉で外交官として、ソ連に対し大いに成果を上げ、ソ連から警戒されていたほどである。その実力を高く評価されての抜擢であった。
 

×「この東大出身でなく肩書きのない非エリート(千畝)を(リトアニア)大使に抜擢することは、外務省には容認できなかったように見える」(P197)
◎千畝がリトアニア赴任の通知を受けた時、ロシア情報収集が最も必要とされた時期であり、ロシア通の千畝の赴任を外務省が急遽決めている。容認できなかったように見えるのは著者のみであろう。
 

×「通例の派遣(カウナス領事館赴任)と思われたものが、規格外れれのものであることが分かってくる」(P202)
◎日本人が一人もいない地に、領事館を開設することは、最初から通例とは思われない。千畝自身もこの派遣を、最初から異例のことだと思ったと、手記に書き残している。
  (次回につづく)

★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第7回)

×「千畝、志村(儀亥知)、笠井(唯計)・・・。彼らは、役人・外交官・スパイの役を交互に演じながら満州でともに働いていた。」(P161)
◎志村は役人・外交官ではなく、また笠井が役人になったときには千畝は日本に帰国しており、3人がともに働いたことはない。
 

×「笠井(千畝のハルピン学院の後輩)は一九三八年、満州から直接、ベルリンに派遣された。彼(笠井)は大戦期間中、駐ドイツ満州国代表として勤務し・・・」(P161)
◎笠井はハンブルグ総領事館に高等官試補として派遣された、9人の館員の中の1人で、最年少であった。代表者は安集雲である。
 

×「大島(浩)は千畝より、ほんの数歳年長であった。」(P163)
◎大島は1886年生まれ、千畝は1900年生まれ。14歳違い。
 

×「ナチスはユダヤ人の国外移住を、一九三九(昭和十四)年、第二次世界大戦が始まった後でも、かなり奨励していた。・・・要するに彼らがいなくなればいいと考えていた。」(P171)
◎ドイツやオーストリアなどゲルマン民族の住んでいる地域からは追放したが、ポーランドのユダヤ人は労働力確保として国外への移動は禁止されていた。杉原研究の場合は、この点を区別すべきである。
 

×「一九三八(昭和十三)年、パリの日本大使館は、千畝にある秘密任務を与えた。そのすぐ後に、彼はフィンランドに出発している。」(P187)
◎1937年9月には既にフィンランドに着任しており、パリには行っていない。38年パリの杉村大使から本省に、千畝を諜報員にとの要請があった事は事実であるが、廣田外相はこれを拒否した。この件を千畝は戦後になって知ったと手記に書き残している。
  (次回につづく)

★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第6回)

×「(北満鉄道譲渡に関し)当初、ソ連が要求した三億円より、はるかに少なかったが、日本の最初の提示額を五千万円上回るものであった。・・・」(P149)
◎ソ連の要求額は六億二千五百万円、日本の提示額は五千万円、決着は、一億四千万円。結果的に九千万円上回っている。
 

×「その日の朝(1935年3月23日)、東京で調印式(北満鉄道譲渡)が行われた。ソ連・日本・満州国の役人が出席し、将来について楽観的見解を述べた。満州国代表は大橋(忠一)だった。出席者の名簿に大橋の補佐(千畝)の名はない。(P149)
◎翌24日の朝日新聞一面トップにも満州国外交部科長として杉原千畝の名前が掲載されている。正式名簿にないはずはない。
 

×「ソ連は、一九三五(昭和十)年に満州から撤退していたとき、満州との国境を流れるアムール河(黒龍江)沿いのビロビジャンに、ユダヤ人自治区を樹立する計画を発表した。」(P152)
◎ユダヤ人自治区構想は既に1928年から実行されている。
 

×「彼(安江弘夫氏)は挑戦されているかのように喋った。<金の書には世界的に有名なユダヤ人の名前が記され、銀の書にはユダヤ人に貢献した外国人の名前が載せられています。私の父は銀の書ではなく、金の書に入っています。・・・>・・・」(P155)
◎安江氏は質問されたことを答えただけで、『銀の書』については全く触れていない、とのことである。
 

×「これは奇妙な理論である。彼(安江弘夫氏)が言及しているのは、植林のために基金活動をした、あるユダヤ機関のことで、そこでは寄付金の額の代わりに金・銀の書に名前が記されることになっていた。われわれの知る限り、この書(金・銀の書)は、その書に名前を入れられた人物に歴史的評価をくだすものではない。」(P156)
◎金の書はシオニストの夢の実現に貢献した人々の名前を記録した書である。植林基金のための記録もあるが、ユダヤ人を助けた人々の名前も記録されている。安江仙弘の場合は、ハルピンのユダヤ人会の推薦によりユダヤ人の恩人として金の書に記されたのである。前記同様、取材に応じた人を嘘つき呼ばわりするとは失礼である。
  (次回につづく)

「〈ムネオ名誉館長〉困った」

 「杉原記念館 館内写真取り外す」(中日新聞14.3.1.抜粋)
 「正直言って困っている。無報酬で名前だけの名誉館長とはいえ、こちらから依頼した手前もあるし・・・」。鈴木氏に記念館の名誉館長就任を依頼した赤塚新吾町長は、当惑を隠さない。(中略)
 町関係者によると当時「現職の代議士は生臭い」「もっと平和のイメージのある人を」といった意見も一部にはあった。しかし、記念館建設当時、町が外務省に助成金を求めたが「該当する制度がない」と断られた経緯があり、「今後に向け、外務省に強い影響力のある鈴木さんへの期待感もあった」と、赤塚町長は正直に明かす。
 記念館長は町産業振興科長が兼務しており、名誉館長は文字通りの名誉職。記念館建設費は「ふるさと創世資金」と岐阜県の補助金、それに全国からの寄付金で賄っており「何らやましいことがなかったのが幸い」と言う町職員もいる。

「故杉原氏の古里困惑」

 「記念館名誉館長は鈴木(宗男)氏」(東京新聞14.3.1.抜粋)
 ・・・岐阜県八百津町が建てた「杉原千畝記念館」名誉館長を昨年5月から鈴木氏が務めている。このため「人道と博愛という記念館のイメージを落としかねない」と、関係者は気をもんでいる。(中略)
 鈴木氏は外務政務次官だった1991年10月、日本との外交関係樹立のためリトアニアなどバルト三国への訪問に出掛ける際、杉原氏の遺族を外務省に招いて、同省が杉原家と意志疎通を欠いていたことを陳謝。杉原氏の“名誉回復”を44年ぶりに図った。同町はこれを理由に、無報酬の名誉館長就任を鈴木氏に依頼した、という。
 NGO排除問題で鈴木氏の関与が取りざたされて以来、記念館などに町内外から「なぜ、鈴木氏が名誉館長?」と異議が続出。館内にあった鈴木氏の写真は、2月初めに取り外された。
 同町の赤塚新吾町長は思わぬ成り行きに頭を抱えている。

「リトアニア・杉原千畝氏の記念館 高い関心裏腹 はや財政危機」

 「無料厳しく、支援訴え」(福井新聞14.2.13.抜粋)
 ・・・杉原千畝氏の資料を保存した記念館が同国(リトアニア)カウナスに開館して約1年半。しかし、入場料が無料で、民間基金と地元大学のみで支えている。「人道と博愛」の記念館は、早くも財政危機に直面し、支援を訴えている。
 旧日本領事館跡の建物を利用した記念館は、市街地やや外れの住宅街にあり、訪問客を集める上で好条件ではない。だが、年間5ヶ月の通常開館期間中、訪問客は日本人を中心に1日平均四十人。昨年はモスクワ日本人学校中学部の生徒が修学旅行で訪れるなど高い関心を集めている。日本人だけでなく、ユダヤ系の訪問客も年間約五百人に上る。
 しかし、三階建の旧領事館建物は現在、別の所有者からの賃貸。館長は「家賃に警備費用などを加えると年間六千ドル(約八十万円)は必要で、維持だけで精いっぱい。将来的に入場有料化をも検討せざるを得ない状況」と訴え、支援を求めている。

『決断・命のビザ』の読書感想文が414万余編の中から選ばれ、高校の部で「毎日新聞社賞」を受賞。

 「千畝から継承するもの」(愛知県立瑞陵高校1年 阪野将司)〈抜粋〉
 ・・・僕は今夏も、千畝に関する一冊の本を手にした。寡黙な歴史の語りべの、そして、僕が通う高校の大先輩の、声無き声を聞くために。
 千畝は寡黙の人で、殊にも、後年人道的な行為として世界から賞賛されたユダヤ難民への“命のビザ”発給に関しては、生前多くを語ろうとはしなかった。
 しかし、ここに貴重な史料がある。亡くなる3年前、病床にあって書き残した「千畝手記」である。本書には二百字詰め原稿用紙にして四十九枚分が収録されており、八百津の「千畝記念館」で何枚かの肉筆原稿を読んだだけだった僕は、そのまとまった量を胸を熱くしながら読んだ。わけても写真版で掲載されたその一部からは、乱れた文字そのままに、千畝の逡巡ややるせなさが伝わってくるその反面、また、病床にあってなお、事実を正確に書き残そうとする、千畝いうところの「道義上の義務」を果たさんとの強い意志が感じられて、その気迫に強く胸を打たれる。・・・
 ・・・「世界は大きな車輪のようなものですからね。対立したり争ったりせずに、みんなで手をつなぎあって回っていかなければなりません」。千畝のこの言葉に、僕は彼の理念を見る。そして、それこそが僕らの継承しなければならないものだと、今、強く確信する。 渡辺勝正『決断・命のビザ』(大正出版)

「3世代の家族 杉原さんがくれた」

 救われたユダヤ人の孫と千畝の孫が対面(毎日新聞14.1.27.抜粋)
 ・・・杉原千畝の孫たちと助けられたユダヤ人の孫が26日、新宿区のホロコースト教育資料センターで対面した。ユダヤ人の孫は、オーストラリアで弁護士をしているダニエル・グリンバーグさん。ポーランドに住んでいたダニエルさんの祖母ドラさん(88)は、迫害を逃れるため杉原さんからビザ発給を受け、シベリア大陸を横断して41年に日本にたどり着いた。当時ダニエルさんの父ロバートさんを身ごもっていたドラさんは神戸で無事出産した。
 ・・・対面したダニエルさんは「人間の行いが意外な影響を広げることを実感した」と語った。孫の中村まどかさんは「祖父は人間味のある人だったと子供に伝えていきたい」と話した。
  (同内容の記事が産経、日経、読売、他に掲載された)

「ビザ発給なければ、私はいない」

 ユダヤ人夫婦の孫、千畝の古里訪問(読売新聞地方版14.1.16.・抜粋)
 「もし、杉原氏が祖父母にビザを発給してくれなかったら、私はここにいない」
 ・・・杉原千畝氏から日本通過ビザを受け、生き延びたユダヤ人夫婦の孫が(ダニエル・グリンバーグさん・弁護士・オーストラリア在住)、15日、婚約者とともに杉原氏生誕の地・岐阜県八百津町にある記念館などを訪れた。
 ・・・ダニエルさんの祖父母は大戦が始まるとポーランドからリトアニアに脱出。杉原氏からビザを発給され、1941年1月、ウラジオストクから日本に入った。神戸市の国際病院で、ダニエルさんの父ロバーツさんが生まれ、戦時中に渡豪し永住した。
 ・・・昨年、オーストラリアの新聞に人道の丘公園の記事が紹介され、祖父母の足跡をたどろうと来日した。記念館に入ったダニエルさんは、「杉原さんに感謝している。杉原さんの好意は今も続いている」と話し、「ほとんどのユダヤ人が殺された。グリンバーグ家三代の命があるのは、杉原氏のおかげ」と感動を新たにしていた。

「日本の米国支援は杉原千畝に通じる」

 「60年前」「9・11」・・・2度の恐怖を語る。(産経新聞14.1.9.夕刊・抜粋)
 昨年9月11日の米中枢同時テロ発生から、まもなく4ヶ月が経過する。「あの日、ニューヨークの世界貿易センタービルの中継映像をテレビで見て、子供のころ、ナチス・ドイツの戦車が自宅を襲ってきた“恐怖”がよみがえった」。
 1933年にポーランドのユダヤ人家庭に生まれて、ナチス・ドイツの迫害を受けたが、日本人外交官の杉原千畝氏が発給した通過ビザで生き延びるチャンスを得たという、米シカゴ・マーカンタイル取引所名誉会長のレオ・メラメド氏がこのほど来日、生涯で味わった2回の恐怖体験について語った。
 

 ・・・日本政府が今回は、タリバン政権に対抗する米国の同盟国として通常のやり方を曲げてまでタリバン攻撃を支援してくれたことを高く評価する。このことはリトアニア領事だった故・杉原千畝氏が本省の意向に反してまで、戦時中に迫害されていた何千人というユダヤ人に日本の通過ビザを信念で発給したことに通じる。
 ・・・ナチス・ドイツはわずか7日間でポーランドを制圧した。私の両親は私を連れ、制圧前の最後の夜汽車に乗ってリトアニアに逃れた。それが2年間にわたる逃亡生活の始まりだった。リトアニアの日本領事館には何千人ものユダヤ人が連日取り巻いていた。日本の通過ビザを発給してくれるとのうわさが広がったからだ。
 何日も並んで父母がビザを受け取ったときの喜びようが、今も目に浮かぶ。
 ・・・杉原氏は5千枚以上(正しくは2千数百枚)のビザを手書きで発行したが、それは純粋な人道主義的な信念からの行為であり、杉原氏自身が得られるものはなにもなかった。世界がナチス・ドイツの行為に沈黙を守っていたときに、危険を冒してまでユダヤ人を救った杉原氏こそ、輝かしい英雄であると考えている。
 ・・・のグリーンスパン議長が、ある時、私に言った言葉がある。「もしも、杉原千畝がいなかったら、メラメドも、金融先物取引も、デリバティブも生まれておらず、1980年代後半に米国で経済恐慌が発生していたかもしれない」というのだ。
 ・・・杉原氏は私に人生のヘッジ(リスク対策)を与えてくれたと感謝している。

★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第5回)

×「1940年代の半ば、ワシントンとロンドンを基地とする連合国の暗号解読班には、ポーランド出身者もいた。ここで、日本の決定版の暗号(紫)が解かれた。その結果、連合国側の諜報担当者に、カウナスで千畝がどういう活動をしていたかの情報が入ることになる」(P144) 
◎ポーランドと日本が組んで、ソ連の暗号を解読したが、ポーランド人が連合軍に加わり、日本の暗号を解読した記録はなく、無関係である。また、千畝は40年9月5日にカウナス(リトアニア)を出国し、プラハ、ケーニヒスベルグを経て、41年にはブカレストに赴任している。40年代半ばのカウナス情報はあり得ない。
 

×「東清鉄道の買収・・・東清鉄道をめぐる状況は、一触即発の危険な状態にあった」(P145)
◎清国が没した後、「東清鉄道」は「東支鉄道」に改名された。さらに1932年満州国建国後は、正式には「北満鉄道」と改名された。したがって杉原が携わったのは「北満鉄道の買収」である。歴史書と銘打つなら時代の変化を明確にすべきである。
 

×「1946(昭和21)年に、東郷(茂徳)は東京の巣鴨拘置所で、この交渉(北満鉄道交渉)につい書いている」(P146)
◎死期を悟った東郷が、1950年1月から「時代の一面」と題して手記を書いたものであるが、拘置直後の46年に書いたものではない。
 

×「しかし、と東郷は強調する。<1933(昭和8)年6月の朝、満州国外交部ハルピン事務所の杉原所長に苦情を申し立てたとき、ソ連は別の大きな問題を・・・>」(P147)
◎巣鴨拘置所で書いた東郷の記録には、杉原に触れた部分は全くない。史料の捏造である。
  (次回につづく)

★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第4回)

×「1931年9月、千畝はハルピンにいた。その時期・・・満州国の官吏でもあった」(P123)
◎1931年9月には満州国はない。建国は1932年3月である。
 

×「1931年9月に起こった満州事変は、なにも特別に暴力的だったわけではない。日本国内でも大臣の暗殺計画や暗殺事件が頻発していたし、その後も起こった」(P123)
◎満州事変は国際的事件であり、国内の暗殺事件と同一視することは、問題である。
 

×「彼(千畝)は忍耐して、そういう連中(軍国主義者や外務省内のその種の同調者)との関係を保っていたかもしれない。彼が頻繁に仕事を変えているのは、その証しになると思われる」(P126)
◎「外務省入省以来、上司の要望により、一時期満州国外交部に転属になったが、戦後外務省を退職するまで、外交官である。仕事は変えていない。
 

×「1940年、外務次官だった大橋は、カウナスから送られてくる千畝の電報に目を通していた。彼は受け取った電報類に、自分の頭文字を残している」(P138)
◎カウナスからの電報のほとんどは、大橋が外務次官になる前のものであり大橋のサインのある杉原電報は、1通も存在しない。外交史料館確認。
 

×「1920年・・・日本はロシアの暗号解読方をワルシャワ防衛軍に教え、封鎖を破るのに成功させた」(P144)
◎記述が逆である。ポーランド軍の少佐が来日し、ソ連軍の暗号に関する知識を日本参謀本部に教授した。日本がポーランドに教わったのである。
  (次回につづく)

劇団四季「異国の丘」に杉原の挿話

 「ミスター杉原は、夜も寝ないでユダヤ人のためにビザを書いてくれました」
 「私の父は、杉原千畝のビザで助けられ、上海に来ました。これからアメリカに行くのです」
 上演中の劇団四季の新作ミュージカル「異国の丘」(浅利慶太企画・脚本・演出)第2幕で、杉原千畝が「こんな立派な日本人がいた」という挿話で紹介されている。シベリア抑留中の主人公「九重秀隆(近衛文麿元首相の長男・文隆がモデル)が、日中戦争のさなか敵国蒋介石の姪・愛玲と恋に落ち、共に日中和平に献身する日々を回想しながら、無念の死を遂げるストーリーで、恋愛場面はフィクションであるが、他の歴史背景は概ね史実に基づく構成になっている。1銭5厘の赤紙で召集され、戦後厳寒のシベリアに抑留された兵士たちの苦痛・無念さ・悲しみが、抑えた調子で語られており、俘虜の物語というやや暗く、仕立てにくい素材が分かりやすく,若い人にも好かれるミュージカルに纏め上げられている。先の戦争の悲劇を風化させてはならないという意気込みが感じられ、一見に値する作品である。
 浅利慶太氏は、プログラムの「1銭5厘の視点から」で、「私は単純なる反戦論者ではない。戦う必要があるときは命を捨てることも受け入れる。しかし、戦争は永く多くの悲劇を生む。戦争を決断するとき、指導的立場にある人は、最後の最後まで戦争を回避するよう努める責任があり、和平工作を模索するときにも、大きな勇気と決断が必要とされるはずだが、日中戦争から太平洋戦争に至るまでの高級軍事官僚の行動には、無能・無責任・非人間的な思い上がりしか見られず、この民を軽んずる官僚主義が、過去も今も日本人の社会に宿る病となっていることを思うとき、鳥肌が立つ」と述べている。
 また、「我々の民族は、20世紀に大きな悲劇を経験した。この歴史は絶対に語り継がなければならない」とし、これを新世紀第1作の主題に据えている。
 思えば、杉原はソ連との「北満鉄道」買収交渉で赫赫たる成果を揚げ、ソ連通の第1人者と見なされ、更なる出世を目前にしたとき、手記に記したように「傲慢な職業軍人の無責任な態度」に嫌気がさし、満州国外交部ロシア科長の席を捨てて帰国している。(『決断・命のビザ』)。このときの反骨精神が、後のリアニアでの避難民に対するビザ発給に繋がる訳だが、彼のような骨太の人物がもっといたなら、あの戦争は違った形になっていたであろうと、改めて考えさせられた。
  好評につき、2月10日まで公演延長 (脇田武志)

★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第3回)

×「満鉄には有名な二人の官僚がいた。・・・松岡洋右・・・東郷茂徳である」(P73)
◎東郷茂徳は満鉄に籍を置いたことはない。
 

×「好水(父)が朝鮮に渡ったとき、家族は八百津に残り、豊秋と千畝は地元の学校に通うことになった」(P74)
◎父親の転勤のため、一家は八百津に住んだことはない。したがって地元の学校に通ったこともない。父の渡朝後は名古屋の官舎で暮らす。
 

×「(中学卒業後)の2年間をふくめ、彼(千畝)はずっと父親とは別居していた。その間、この父と子は、かなり険悪な関係にあった」(P74)
◎千畝は中学卒業後、すぐにソウルに渡り、1年間家族と暮らす。受験に関しての意見の相違はあったが、父は千畝に期待し、仲が良かった。
 

×「彼(千畝)も植民地官吏の卵として歩み出そうとしていた。しかし、彼はそれ以外の者になろうと考えていた。・・・偉大な教師として認められようと」(P79)
◎留学試験合格以前は英語教師を目指していたが、合格後は外交官以外のものになることは考えていない。
 

×「彼(千畝)は野球に熱中していた。ハルピン学院の野球部は・・・寒いハルピンの野球シーズンは短く、千畝がハルピン入りした年(1919年10月)には試合に出られなかった」(P79)
◎千畝はアルバイトに追われ、野球などしたことはなかった。また当時ハルピン学院はなかった。
 

×「到着した晩秋には、スンガリー(ハルビン市内の河)が凍結しており、運動好きの彼はアイスホッケーを楽しんだ」(P79)
◎千畝の寄稿文に寄ると、当時のことを「北満のこの地においても、まだ温かく非常に散歩に適していた」と記している。この年は特に温かかったようである。スンガリーが凍結するのは、年明けからである。
  (次回につづく)

★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第2回)

×「杉原リストが千畝の行為を批判し、彼を処罰したといわれる外務省の書庫に、正しく保管されていた事実は何を意味するのであろう」(P15)
◎特別な意味はない。1941年2月3日に松岡外相の訪独が決定した。翌2月4日に急遽、松岡は千畝にリストの提出要請の電報を打っている。ビザ発給後半年も過ぎているこの時期に慌てて提出させたのは、ドイツ側の反応を危惧した松岡が、訪独の準備として杉原ビザを把握しておくためである。
 外相からの要請で提出された書類を、本省が保管するのは当然である。
 

×「私は何度か、さじを投げかけた。千畝本人の手紙や日記、個人的記録がどうしても出てこない」(P21)
◎著者は新聞のインタビューで1000人に取材したと応えているが、最も重要な幸子夫人に正式な取材をしていれば、杉原家に千畝の手紙、日記、手記、メモ、千畝宛の書簡など保管されていることが分かるはずである。
 

×「その年(1919年)、千畝は第1回生として入学(ハルピン学院)する」(P66 )
×「(1919年)11月1日から始まる2学期に間に合うよう、10月6日に到着した。寮に落ち着き、制服・制帽を支給された」(P78)
◎千畝がハルピンに渡ったときは、ハルピン学院はまだ開校されていない。当学院の創立は翌1920年9月24日であり、寮も制服・制帽もない。
 

×「普通、学生は学年の始業時に就学するが、ここの学則では、能力のある者はこのような例外を認めていた。・・・半年前に勉学を始めたほかの学生に合流できると判断されたためであろう」(P78)
×「千畝が卒業したとき、学院にはまだ学則がなかったためか・・」(P91)
◎千畝が入学するときは学則で途中就学が認められたとし、卒業時にはまだ学則がなかったとは、どういうことか。また、無い学院で合流はできない。
 

×「彼はたまたま7月16日に行われる試験の告示を新聞で・・・」(P76)
×「それは(留学試験の告知)外務省が出したもので、〈海外留学の給費生14人募集〉と表題がついていた」(P76)
×「もし千畝がただヨーロッパ文化にあこがれていただけなら、1番人気があったもの(英語、ドイツ語、仏語)を選んでいただろう」(P77)
◎1919年5月23日の官報で確認すると、試験日は7月3日、18人募集、英語、独語、仏語以外の募集と記されている。
  (次回につづく)

★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第1回)

×「日本政府は至急電を送っていた。〈カウナス領事館発給の査証所持のユダヤ人が満州を通過、日本に到着しつつあり。本省が繰り返し伝えし指示にもかかわらず、なぜ、かほど多数のユダヤ人が正式査証を認められしや〉」(P10)
◎このような電報は存在しない。史料の捏造である。杉原ビザ所持のユダヤ人たちはウラジオストク経由で敦賀に上陸した。杉原ビザは日本通過ビザであり、満州国は通過できない。
 

×「シベリア鉄道や満州鉄道の沿線に散らばっていた日本とソ連の役人、政治家、国境警備官などの間で、このヴィザ発給者が千畝だと悟った多くの者が・・・」(P16)
◎杉原ビザには、シベリア鉄道でウラジオストク経由、敦賀に上陸と記入されている。日本通過ビザで満州国に入り、満州鉄道に乗ることはできない。事実、リトアニアからの避難民で満州国を通過した者は皆無に等しい。
 

×「千畝と豊秋は、木曽川の川岸に座って鵜匠が鵜を使って鮎を捕るのをあきずに見ていた」(P33)
×「杉原家の兄弟たちは、八百津ではそこそこの生活水準にあったようである」(P35)
×「食肉組合八百津支部が主催する会合などは、杉原兄弟にとって特に魅力的なものだった」(P36)
◎木曽川の八百津町地域では、現在まで鵜飼が行われたことはない。鵜飼は犬山下流で行われていた。また千畝は八百津生れではあるが、父親の転勤で八百津に住んだことはない。当時、食肉組合もなかった。
  (次回につづく)

早稲田が生んだ偉人

 杉原千畝との出会いは、1997年「棚田百選」のひとつ、岐阜県八百津町北山を訪ねた折のことである。
 名鉄八百津駅前からタクシーに乗り、北山までというと、「杉原さんの取材ですか」と尋ねられた。私の出で立ちによるものと思ったが、杉原さんが誰なのか、今度はこちらから尋ねると、なんでも戦争の時たくさんの外国人を助けた人というだけで要領を得なかった。しかし、すぐに杉原千畝であることに思い至った。後で知ったことだが、北山は杉原の生母の実家があり、ときどき取材のため訪れる人がいるのであろう。この時は棚田の調査だけを行い、引き上げた。
 東京に帰ってから、杉原千畝の名前が妙に気になるようになった。千畝とは棚田の重なり、生母が目にしていた北山の棚田のことではないかと。それから先は確かめようもなかったが、99年6月号の『早稲田学報』に『早稲田の誇り杉原千畝」という記事が巻頭を飾っているのを見た。
 記事は、その功績に対して戦後帰国した杉原を免官した国も、出身者として十分に遇していない大学も冷たすぎるという内容。早速、筆者の大正出版社長・渡辺勝正氏に電話をかけ、名前のことを伝えると、ひどく関心をもたれ、藤沢市在住の杉原幸子夫人に確かめてみるとのことであった。
 しばらくして、執筆中の『真相・杉原ビザ』の草稿と手紙が送られてきた。夫人に尋ねると、名前の由来はわからないが、十分に考えられるとのこと。草稿には、「千畝というユニークな名前」の見出しで、税務署員であった父・好水が、妻・やつの実家の南側に、千畝の名にふさわしい立派な千枚田(棚田)が広がっていることにちなんで届け出たのではなかろうかと書かれていた。
 2000年3月、このことを確かめるために北山を再訪し、千畝の母親やつの実家を訪ねると、納屋で作業をされていた当主の岩井錠衛さんと奥さんが応対してくださった。
 やつは錠衛さんの祖父の妹に当たるとのこと。父親の好水も北山出身で、もともとは岩井姓であったが、町内の杉原家に結婚時に養子に入り、姓が変わった由。名前の由来については新しい情報を得ることはできなかったが、父母が北山の棚田を原風景として育ち、この地で千畝が生まれたとすれば、推測どおりかもしれないと思った。
 岩井家は集落の西の外れにあり、背後は杉林、前面には棚田が広がっている。玄関前の庭に立つと、北山の棚田がほぼ一望できる。
 棚田は、比較的緩い斜面に長い畦を気持ちよく伸ばし、緩やかな曲線をつくり出している。その畦は三方から盆地底に向かって収斂し、下のほうは折り重なって見える。
 背後は杉林、前面に広がる千枚田の景観は、まさに杉原千畝の名前どおりではないかとあらためて思った。
 この原風景が杉原千畝の博愛の精神を育て、6千人を超えるユダヤ人を救ったとすれば棚田はユダヤ人の救世主ということになるのではないだろうかと想像を膨らませ北山を後にした。
  (2001・12号 『早稲田学報』抜粋 中島峰広)

「歴史の証言 肉声テープ寄贈」

 「第二次大戦中、日本の通過ビザを発給し、ナチスの迫害から多くのユダヤ人を救った元リトアニア領事代理・故杉原千畝氏が、ビザ発給当時を回顧した未公開の録音テープが、古里の岐阜県八百津町に届けられた。テープからは、国の方針に反して、ビザを発給した覚悟が伝わってくる。杉原氏の肉声による証言テープはほとんどなく、貴重な資料になりそう」 (元フジテレビの萱場道之輔氏寄贈・H13年11月11日 中日新聞朝刊)

【杉原氏の肉声テープの内容抜粋】 1977年8月4日モスクワにて、萱場氏インタビュー

 〈ポーランド領から逃げてきた人たちだと思った。西ポーランドのガレシアのほうから、前年にドイツなってしまったから、ユダヤ人は逃げ回っていた。それからビリュニスを通ってどんどん寄ってきた。ビリュニスで日本領事館がカウナスにあることを聞いて領事館に雪崩をうって押し掛けた。私はちょうど領事館引き上げ命令をソ連政府から受けているので、家具をかたづけなければならない。・・・・・・そこへ流れ込んできたわけで、「行くところがない。日本を通ってよその国へ行くから通過だけのビザを下さい」と頼んできた。東京に聞いたけれど、東京はガンとして応じない。ノータッチでいろと言うが、宿舎の窓に何千人と集まっている。〉・・・中略・・・
 〈終戦後、日本に帰ってきて外務次官の岡崎氏が来てくれて(注・直接あったという意味)「ご存知の件で問題があった。文句を言わずに暇をとってくれ」と言うから「分かった」。退職手当3,000円、以後自力、独力でずーと頑張ってきた。〉・・・後略

杉原千畝のヴィザ発給をめぐる誤解

 杉原千畝像を歪めようとする動きがある。杉原氏は「日本政府のユダヤ人保護政策に従ったまで」という説がそれである。
 日本政府のユダヤ人保護政策というのは、昭和13年12月6日の五相会議( 首相・外相・蔵相・陸相・海相から構成された当時の最高国策決定機関)において「ユダヤ人対策要綱」を決定し、ユダヤ人を他の外国人同様公正に取り扱うと決めていたことを指す。筆者は当該期、ナチス・ ドイツと防共協定を結んでいたにもかかわらず、ユダヤ人を差別しないと定めた要綱は重要であり、同要綱によりユダヤ人差別を否定した日本政府の姿勢は、評価すべきだと思っている。
 しかし、そこから一足跳びに杉原氏のヴィザ発給は「日本政府のユダヤ人保護政策に従ったまで」と見なすことには同意できない。なぜなら現在外交史料館に残っている電報に、発給条件に則ったヴィザを命じた本省から、杉原領事代理宛の訓令電が存在しているからなのだ。
 このように書くと、読者の中には、一方でユダヤ人を差別しないとして、一方でヴィザを出すなという政府の方針が、著しく矛盾しているように感じる方も、いらっしゃるのではなかろうか。
 しかし、ここで注目すべきは本省からの訓令電の内容である。昭和15年8月16日発、松岡洋右外相より在カウナス杉原領事代理宛電報第22号には行き先国が確定していない 、ないしは十分な旅費を所持していない者に対して、ヴィザを発給してはならないとあるのみで、ユダヤ人に対してヴィザを発給してはいけないとは一言も書いていない。
 要するに問題はユダヤ人に対して発給するか否かではなく、難民化して日本から出られなくなるような人々にヴィザを出すことの可否である。杉原ヴィザの問題を対ユダヤ人政策の枠組みだけで見ることは非常に危険だ。
 本件にはもう一つ難民に対する人道的対応の問題が潜んでいるからである。それゆえに杉原氏は「日本政府のユダヤ人保護政策に従ったまで」ではなく、難民に対するヴィザ発給にあたって、政府の方針に背いても、ヴィザを発給し続けた人物と位置づけられる。すなわち、「ユダヤ人対策要綱」の存在により、杉原氏の業績の価値が損なわれることは決してないのである。(次回につづく)
  (上智大学『ソフィア』196号 抜粋  白石仁章)

驚愕すべき図書『千畝』

 杉原千畝像を歪めようとする人々が教典の如く重視している図書が存在するので、その問題を採りあげたい。ボストン大学のヒレル・レヴィン教授が書いた『In Search of Sugihara』という図書で、『千畝』(諏訪澄・篠輝久監修・訳、清水書院)のタイトルで翻訳もされている。レヴィン教授が多くの国を訪れ、史料収集と関係者へのインタヴューに努めた成果だというので、筆者も大いなる期待をもって同書を繙いた。ところが、その期待は、驚愕に変わってしまった。
 ともかく歴史的事実に対する誤認、実証のともなわない思い込みによる記述が目白押しなのだ。問題点を発見するたびに付箋をはさんでいたのだが、ある日筆者が非常勤講師をしている大学の学生たちが、筆者が所持していた『千畝』を目にし、あまりにもたくさん付けられた付箋の意味を尋ねたので、「この頁全てに誤りがあるのだよ」と教えると、驚き、呆れ果てていた。彼女らが思わずつぶやいた「このような間違いだらけの本が売られていていいのですか?」という言葉が忘れられない。
 さらに、筆者が杉原氏ご遺族、さらに大連特務機関長として極東在住ユダヤ人たちの地位安定のため奔走した、故安江仙弘陸軍大佐のご長男安江弘夫氏に確認したところ、インタヴュー内容として彼らが話してもいないことが書かれたというのだ。これは明らかに「捏造」である。しかも、「捏造」されたインタヴュー内容を読んで、幸子夫人は体調を崩され寝込まれたとも聞いている。
 また、ここで事実誤認と若干ニュアンスが違うが、どうしても指摘しておきたいことがある。それはレヴィン教授の記述には、ある種の悪意すら感じさせる記述が散見することだ。ここで二例のみ指摘することとしたい。
 第一例は、『六千人の命のビザ・新版』において幸子夫人自身が、杉原氏との結婚を決意した際のエピソードを次のように記している。
 「どうして、私と結婚したいのですか」と尋ねると
 「あなたなら外国に連れて行っても恥ずかしくないから」という返事が返ってきたので、結婚を決意した・・・。
 ところが、これに対してレヴィン教授は
 「事実として、彼女が千畝に何を感じたのか、彼女は言わない。これが激しい恋愛結婚だったのかどうかも、はっきりしない。彼女は外交官の妻として海外に行き、そこで住み、彼女のいう〈華やかな生活〉を送るという考えが気に入ったらしい」
と記しているのだ。(筆者注 幸子夫人はまともなインタヴューを受けていないそうだ。また著書に〈華やかな生活〉という記述はない)
 この記述は幸子夫人、ひいては杉原夫妻に対するある種侮辱とも言えるのではなかろうか。
 第二例は、安江大佐のご長男弘夫氏へのインタヴュー内容を紹介した際に、弘夫氏の談話の前にわざわざ「彼は子供の頃に父親と別れている」という一文を付し、まるで彼の談話に信憑性がないように書いているが、安江大佐がソ連軍に拘引され、弘夫氏が父親と別れたのは彼が二十一歳のときなのだ。二十一歳を子供とはとても言えない。
 わざわざ時間を割いてインタヴューに応じてくれた相手へのこの振る舞いは一体何なのであろうか。
  (上智大学『ソフィア』196号 抜粋  白石仁章)

リトアニアでの桜の植樹

 平成13年10月2日、杉原千畝生誕100周年の記念行事の一環としてリトアニア共和国の首都ヴィリニュスにて祭典がくり広ろげられた。私は桜の記念植樹式と日本・リトアニアの文化交流祭に参加した。
 式典は、杉原の母校早稲田大学が建立した杉原千畝顕彰碑が、同校佐藤副総長により除幕されたあと、杉原幸子未亡人、アダムスク・リトアニア大統領、同国関係者、現地日本大使らの挨拶が続いた。
 日本からの参加者130名の他、現地の一般参加者、楽隊、民族衣装の女性合唱団など約600名がつめかけた。少年団が放った折り鶴を付けた風船が、雨上がりの空に消えたあと、アクロバット飛行のヨーロッパ・チャンピオンによる祝賀フライトがあり、式典は最高潮に達した。夜は打上げ花火大会もあり、国を挙げての歓待ぶりであった。
 旅行参加者と日本の有志からの基金で寄贈された桜の苗木は、ヴィリニュス市の中央を流れるネリス河畔の公園、同市のスギハラ通りと、カウナス市の元日本領事館(現・杉原記念館)他に、染井吉野200本、仙台枝垂れ桜30本が植樹された。
 式典のあと、同市立タウンホールにて国際写真交流会と軽食パーティーが催され、同夜には国立オペラ劇場において「ジャパン・リトアニア・ナイト」と銘打った文化交流があり、両国の友好を深めることに役立っていた。
 リトアニア大統領は、「杉原氏が、自分の地位と命を引き替えに、勇気ある人道的な行動を行ったことに感動している。この国の人も見習うよう。また、彼の行為をこれからも後世に伝えていきたい」と挨拶した。
 この植樹祭に参加して感じたことは、リトアニア人、ユダヤ人に関係なく、現地では、杉原の人道的な行為・勇気を称え、親から子へと語り継いでおり、そこには宗教的、人種的な偏見など、ひとかけらも見受けられないことであった。
 杉原がカウナスでビザを発給した1940年から既に61年たっている。1947年に帰国した杉原は免官させられたが、2000年10月10日外務省がそれまでの非礼を遺族に詫び、外交史料館に杉原の顕彰プレートを設置した。この日は日本とリトアニアの新たな外交関係が樹立された10周年記念日に当たる。それまで半世紀以上にわたって、杉原家と外務省とは断絶状態であった。
 長年にわたる日本国内の鬱積した不可解な動きに比べ、リトアニアの人々の行動は、屈託がなく清涼感を覚えた。
  (長野県人会会誌『リンドウ会』抜粋 脇田武志)