杉原千畝研究会
天皇、皇后両陛下が、リトアニアご訪問
ヨーロッパ5カ国を、訪問された両陛下は、5月26日(日本時間)バルト三国で、
最後の訪問先となった、リトアニアの首都、ビリニュスに入られた。
[天皇、皇后両陛下は、第二次大戦中にナチス・ドイツから迫害された多くのユダヤ人を
救った外交官、杉原千畝の記念碑に立ち寄った。同国には杉原の記念館や、名を冠した
通りがある。
遺族は「両陛下のご訪問で、杉原の人道的行為が改めて報われた思い。本人もきっと
喜んでいると思いますと話している。」・・・「今回、両陛下が訪問した記念碑は、01年に、
母校の早稲田大学の寄贈で、ビリニュス市の河畔に建てられた。
両陛下はアダムクス大統領夫妻とともに、リトアニアの外相の説明を受けた後、
記念碑に歩み寄り、埋め込まれたビザの写真製版や、杉原氏の顔のレリーフにじっと
見入っていた。
この前に行われた昼食会でも、大統領は杉原氏が日本とリトアニアの間に、
「外交業務を超えた特別な懸け橋」を作ったと述べ、「常にリトアニア国民の尊敬を集めている」
と評価した。](朝日新聞 07.5.27より抜粋)
同様の記事が、毎日新聞、読売新聞、日経新聞、東京新聞、産経新聞他、各地方新聞にも
掲載された。
リトアニアより「杉原千畝顕彰切手」が発行された(04.6.19)

「杉原千畝サクラの会」の桜が咲いた(04.4.5)
昨年6月「杉原千畝サクラの会」の会員によって、八百津町の「人道の丘公園」に
植えられた桜(陽光)が、八百津町役場の管理のもと、土壌の悪条件を克服して、
見事に咲きました。

7月27日(土)、横浜市民活動センターにて、パネル・ディスカッションが開催された。
パネリストは白石仁章氏(外務省・外務事務官)、杉原誠四郎氏(武蔵野女子大学
教授、渡辺勝正氏(杉原千畝研究会代表)で、杉原テーマの研究発表が行われた。
*白石氏《外交史料の「ユダヤ人対策要綱」について、誤った解釈がなされてい
ることに反論し、ビザ発給に対する条件などについて解説》
*杉原氏《第2次世界大戦における外務省本省、ワシントン組、ベルリン組を通
じて、外務省の体質について批判》
*渡辺氏《杉原ビザ発給の経緯と、違反ビザがなぜ有効だったかを説明し、杉原
の英断に対する河野外相の謝罪と顕彰について説明》
ディスカッション後、活発な質疑応答が行われ、盛会であった。
なお、八百津出身の方から「杉原は悪いことをして外務省を馘になった。悪い人だ
ったらしい」と以前、母親から聞いていたとの発言に、参加者一同は驚いた。
今後も杉原千畝の功績を伝えていこうということで散会した。
(グループファニックス主催 ティグレ・杉原千畝研究会 協力)
「杉原千畝さん顕彰の新曲が・・・」(早大グリークラブ 松本数馬)![]()
フィンランドとバルト3国の演奏旅行の大きな目的である「日本のシンドラー」
杉原千畝さんを顕彰するリトアニア・カウナス演奏会では、会場が満席になり、
アンコールとして「早稲田の栄光」を歌い始めると、思いがけず観客の皆様に
スタンディングオベーションを頂くことになりました。
杉原さんの人道的な行為が生んだ日本とリトアニアの架け橋、その強さ、
大きさを感じた瞬間であり、言葉では伝えられないほど、感動的な出来事で
した。(中略)
今年11月24日の定期演奏会では、この演奏旅行を契機としまして杉原千畝
氏を顕彰する新曲を、リトアニアの作曲家ヨーナス・タムリオーニス氏に委嘱し、
初演いたします。 (早稲田大学グリークラブ 帰国報告書より)
★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第11回)
×「杉原リスト四五五番のゾラ・バルハフティクが、その一人である。私はエルサレム
の中心部にあるアパート、ユダヤ法の書籍がぎっしり詰まっている本棚に囲まれた
部屋で、彼にインタビューした。・・・・・バルハフティクは私に語った。」(P227〜P231)
◎4頁にわたってのインタビュー内容が、バルハフティク著『日本に来たユダヤ人』(英語版あり)
の文章と全く同一である。大量引用にすぎない。またアパートを訪れた数人の証言者によると
部屋は本棚に囲まれていないとのこと。インタビューは行っていないと言わざるを得ない。
×「彼(ソリー・ガノール)は六十歳代で、短躯だが筋肉質な身体で、・・・・・・海が好きで、
その顔は陽に焼け、何十年も海を渡って商売をしてきた商人を思わせるものだった。
・・・・・・」(P242〜 P247.)
◎ガノール氏はナチ収容所育ちで栄養失調のため短躯、船員だったので陽に灼けていると
想像して書いたのだろうが、反して彼は長身で、筋肉質でもなく色白である。インタビューして
いたら間違えるはずがない。ガノール著『日本人に救われたユダヤ人』(英語版あり)の五頁
にわたる大量引用である。この件でガノール氏は、レビン氏に対し立腹しているとのこと。
×「千畝は音楽にも熱中した。・・・ヘルシンキの湖畔の優雅な領事官邸で、カウナスの
バイツガンタス街の家で、幸子とともに、そして最後の鎌倉の家で、彼は何時間もピア
ノを弾いた。」(P251)
◎カウナスの領事館にはピアノはなかった。幸子夫人にインタビューをしていれば間違える
はずがない。またヘルシンキは領事館ではなく公使館である。
×「一九四〇(昭和十五)年四月六日、カウナス発、電報五八号、杉原領事代理
外務大臣宛 領事館建物賃貸契約更新の件」(P255)
◎このような電報は存在しない。この件は杉原の自筆で便箋四枚に書かれ、領事館の
角印が捺印されている書簡である。原資料として扱う場合は、正確を期すべきである。
正しくは「普通第五八号 在カウナス領事代理杉原千畝 外務大臣有八郎殿
当館家屋借入契約更新ニ関スル件」 (次回につづく)
★レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第10回)
×「一九四〇(昭和十五)年春には、リビコフスキー大佐はラトビアのリガにもどり、
そこで〈日本公使館付き武官〉と協力して〈情報本部〉をつくった。しかし、それは
三か月しか持たなかった。ソ連が六月十五日、ラトビアを占領したからである。
そこでリビコフスキー大佐は、駐スウェーデン日本公使館のストックホルム事務
所にもぐり込んだ。そこには公使館付き武官・小野寺信陸軍大佐がいた。」(P215)
◎当時小野寺はまだ日本におり、翌1941年1月27日にストックホルムに到着した。
また、公使館の事務所ではなく、日本陸軍武官事務所にもぐり込んだのである。
×「千畝とこの将校たち(樋口季一郎、山脇正隆)は、長い満州時代を通じて旧知の
間柄だったからだ。・・・」(P217)
◎千畝は1935年7月初旬(実際には春)満州から帰国。樋口は同年8月中旬にハルピン
に着任。樋口は1925年ポーランド公使館付き武官、1928年からハルビン行きまでは
国内配属。千畝と樋口の接点はない。この件に関しては千畝自身メモに書き残している。
×「(1939年10月11日)ソ連が、ビリニュスとその周辺地域リトアニアに返還され
ると発表した。カウナスのキリスト教住民は彼ら流に・・・つまりユダヤ人を殺して、
それを祝った。」 (P218)
◎リトアニアのカトリック教徒とユダヤ教徒は当時反目していたが、ビリニュス返還に関して、
なぜユダヤ人という理由で彼らを殺したのか。そのような事実はない。リトアニア人がナチ
に協力してユダヤ人狩りをしたのは、1941年6月の独ソ戦でナチがリトアニに侵攻した
後のことである。
×「ウルビダイテ夫人はいう。はじめて千畝にあったとき、彼女は十九歳で、家族と
ともにカウナスに着いたばかりであった。」(P220)
◎ウルビダイテは生涯独身で夫人ではない。また兄妹二人だけで、千畝が領事館を開設
する以前から3階に住みついていた。秘密保持のために3階まで借りたかったがを断念
した。なお、当時彼女は22歳であったと生前語っていた。 (次回につづく)
「責任をとらない外交官」(長谷川煕)![]()
・・・日本の外務省も、誰もが無能だったわけではない。
62年前の1940年夏、リトアニアのカウナスに駐在した杉原千畝領事代理は
臨機の判断で、独ソから逃れるユダヤ人などの難民、亡命者に、記録されている
限り、計2139通の日本通過査証(ビザ)を発給し、命を救った。
外国人入国令の条件を満たさない者には通過ビザを出すことも外務省は訓令で
禁じたが、それを無視した。この行為は救われたユダヤ人たちによって広く知らされ、
世界に人々の心を揺さぶった。
在北京日本大使館、在瀋陽日本総領事館は、杉原領事代理の逆をやった。
・・・杉原氏や条約改正に表れた近代日本の誇りうる伝統は、外務省の出先、本省、
小泉首相にも受け継がれているようには見えない。
(『AERA』2002.5.27号 「日本の外務省の巨大な嘘」より抜粋)
★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第9回)
×「一九四〇(昭和十五)年五月にリッベントロップが、これ(ナチスとソ連の思い
もよらぬ接近)を口にしたとき、大島は不機嫌になり聞くことを拒絶した。」(P206)
◎1940年5月には大島浩はドイツにいない。また、独ソ不可侵条約は前年の8月23日
すでに締結されている。
×「ポーランドと特別な関係を持つ日本は、ヒトラーの侵攻をやめさせるべく、最後の
瞬間まで、ドイツ・ポーランド間の条約締結に奔走していた。」(P206)
◎この時期の独ポの条約とは何か。全く意味不明である。歴史的にみて日本が独ポ間の
条約締結に奔走した事実はない。
×「九月十五日(1939)、ソ連は不可解にも休戦を呼びかけてきた。」(P209)
◎9月15日は(ノモンハン)停戦協定が結ばれた日である。
×「ナチスは、・・・当分はバグ川でとどめることにした。それは、いま千畝が住んで
いるところから、ほんの数キロ西の地点だった。」(P210)
◎カウナス領事館から数キロ西の地点にバグ川はない。バグ(ブグ)川はポーランドに
位置し、カウナスからは200キロ以上離れている。
×「九月一日、ナチスとソ連がポーランドを攻撃してから・・・」(P210)
◎9月1日はドイツ、17日にソ連がポーランドを攻撃した。同時攻撃ではない。
×「一九四〇(昭和十五)年五月、フランスがドイツに敗北するときまで、パリは
ポーランド亡命政府の作戦基地だった。」(P215)
◎フランスが敗北したのは1940年6月14日。ポーランドの亡命政府は前年の
1939年11月、すでにパリより西南300キロのアンジェールに移されている。
(次回につづく)
杉原千畝の良心を思い出せ (ピーター・タスカ)
「瀋陽事件」に対する国内外の反応をみていると、16年前に亡くなった
ある人物を思い出す。20世紀に世界的な名声を得た唯一の日本人外交官、
杉原千畝のことだ。後輩たちの行為がメディアや国会で大問題になり、世界中の
テレビで繰り返し報道されたことを、杉原はどう思っているだろうか。
ーー 中略 ーー
「瀋陽事件」は日本の象徴
杉原千畝が「悪い外交官」だったことはいうまでもない。杉原は上司の指示を
無視し、大切な同盟国の敵を助けて国益に背いた。適正な手続きを経ずに、
大量の外国人を日本に入国させた。
それとは対照的に、瀋陽総領事館の日本人職員は「いい外交官」だ。彼らは
上司の指示を守り、所属する組織に忠実だった。中国の武装警官の帽子を拾って
あげたことからわかるように、並はずれて礼儀正しく、職場を清潔に保つことにも
熱心だった。
難民の受け入れに消極的な姿勢も、政府の政策と国民感情の両方にかなった
ものだ。彼らはメディアや政治家に酷評されているが、実際には日本人の誰一人
として、難民の受け入れを増やしたいとは思っていない。日本の難民受け入れ数は
先進国のなかで飛び抜けて少ないにもかかわらず、である。
「不審な外国人」を日本に入れないよう懸命に努力した彼らは、常識に沿って行動
したにすぎない。その結果、人命が失われるとすれば不幸なことだが、それは自分
たちの責任の範囲以外なのだ。
本音の部分では、私たちの大部分も瀋陽の「いい外交官」たちと大差はない。
政治家やテレビ番組の司会者、雑誌のコラムニストも含め、どれだけの人間が
上司や一般国民の「常識」に逆らえるだろうか。マニュアルを投げ捨て、良心に
従って行動できるだろうか。
杉原のことを思うとき、誰もが居心地の悪い気分になるのはそのためだ。だから
こそ、杉原の行動を忘れてはならないのである。
(『NEWS WEEK』 2002.5.29 コラム・オン・ジャパンより抜粋)
「〈官勢〉いや増すばかり」(堺屋太一・加藤寛・渡部昇一・鼎談)![]()
「外交」を見失った外務省
・・・・・・(前略)
堺屋「外交事務にまつわることを一切やらないのが制度的になっています。
彼らが腐心するのは、開戦時の野村大使の件でもお分かりのように、外交官
の特権を守る、いわば共同体を守ことがなりよりも重要なのです」
渡部「かつて外務省には杉原千畝という外交官がいました。戦争中にユダヤ
人たちへ「命のビザ」を発給した人物ですが、いまでもイスラエルでは英雄扱い
です。ユダヤ人に親切だったことは、日本がヒトラーと重要な一線を画していた
とになり、それを戦後、世界中にアピールできることは、大きな外交資産だった
はずです。ではなぜ、戦後にこの杉原千畝をアメリカ大使に起用するぐらいの
度量がなかったのか。全く外交センスゼロです。
結局、杉原千畝は戦後に任地のルーマニアから帰国直後に外務省を馘にな
ってしまう」
加藤「杉原千畝を馘にしたのは曾野明というキャリア外交官ですが、彼らが
かんかんになって怒った。外務省の中枢からみれば、勝手にビザの発給をした
人物を顕彰することなど許せなかったのでしょう」
堺屋「特権を死守したい外務省にすれば、杉原千畝という人は共同体の掟を
破った人なのです。だから懲戒免職にして、四十年以上も村八分にしつづけた。
名誉回復したのはわずか二年前、二〇〇〇年のことです」
渡部「しかも彼は、いまでいうキャリア、エリートではなかったから」
加藤「そういった病理ともいえる風習が、戦前から今に至るまで外務省に蔓延
しているのはなぜか?・・・」(後略) (『諸君!』6月号より抜粋)
「杉原千畝はいないのか」中国瀋陽亡命者連行事件![]()
妊婦や子供が引きずり出されるのを黙認した日本総領事館職員らは
杉原千畝元外交官の偉業をご存じないのか?
1940年、リトアニアで領事代理を務めていた杉原は、外務省の命令に
逆らって、六千人を越えるユダヤ人にビザを発給し続けた。
〈ビザを求めるユダヤ人たちが大挙して領事館に押し寄せてきたのは
7月18日の早朝でした。ナチスに追われた彼らは日本を通過してアメリカ
などに逃げようと考えていたのです。(中略)外務省から「発給してはならぬ」
という返事が来たとき、すでに心は決まっていました。千畝は朝から晩まで
昼食をとらずにひたすらビザを書き続けました〉
〈主人は大使にはなれなかったけど、外交官としての役割は十分に果たし
たのではないでしょうか〉(杉原未亡人の回想録より)
今の外務省に“外交官”といえる職員が何人いるのだろうか。
(『週刊文春』5月23日号より抜粋)
「<ムネオ名誉館長>解職に」![]()
「杉原千畝記念館名誉館長解職に」 (朝日新聞2002.5.8)
岐阜県八百津町は7日、町営施設「杉原千畝記念館」の名誉館長だった
鈴木宗男代議士に対し、「解職」を通知したと発表した。2日に鈴木氏に
文書を送ったという。
★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第8回)
×「一九三九年夏、満州国とソ連国境で、日本軍とソ連軍の衝突が起
こった。ノモンハン事件である」(P191)
◎ノモンハン事件とは、満州国とモンゴル国の国境・ノモンハンで外モンゴル兵に
日本軍が発砲したのが始まりである。
×「千畝は、ヘルシンキからカウナスへの転任について、ポーランドの抵抗
運動家R・コラブ・ザブリクへの手紙で記している<・・・カウナス領事館に
は武官が全然いなかった・・・>」(P195)
◎ザブリク宛という手紙を本書では、数カ所において取り上げているが、これは現在、
ポーランド軍事博物館に保存されている、元ポーランド情報将校リビコフスキー宛の
レポートと全く同じ内容である。戦前、協力関係にあったリビコフスキーの要請を断り
切れず、千畝がロシア語で書いた10枚のレポートは存在するが、元外交官が見知ら
ぬ者に戦後とはいえ、機密事項を軽々しく書くはずがない。日本、ポーランドの学者
もこの手紙の存在を否定している。
×「(リトアニア)首都カウナスに領事館設置の交渉を行い、一九四〇(昭和十五)
年七月十二日、外務大臣・有田八郎に報告している」(P196)
◎前年の1939年7月20日、千畝はカウナス領事館開設の指示を受け、その年10月
には領事館を開設している。
×「完璧な外交官でもなく、かといってただの市民でもない杉原千畝の起用(リ
トアニア領事代理)は、ちょうどいい妥協だった」(P196)
◎千畝は満州時代に、北満鉄道譲渡交渉で外交官として、ソ連に対し大いに成果を上げ、
ソ連から警戒されていたほどである。その実力を高く評価されての抜擢であった。
×「この東大出身でなく肩書きのない非エリート(千畝)を(リトアニア)大使に抜擢
することは、外務省には容認できなかったように見える」(P197)
◎千畝がリトアニア赴任の通知を受けた時、ロシア情報収集が最も必要とされた時期で
あり、ロシア通の千畝の赴任を外務省が急遽決めている。容認できなかったように見え
るのは著者のみであろう。
×「通例の派遣(カウナス領事館赴任)と思われたものが、規格外れれのものであ
ることが分かってくる」(P202)
◎日本人が一人もいない地に、領事館を開設することは、最初から通例とは思われない。
千畝自身もこの派遣を、最初から異例のことだと思ったと、手記に書き残している。
(次回につづく)
★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第7回)
×「千畝、志村(儀亥知)、笠井(唯計)・・・。彼らは、役人・外交官・スパ
イの役を交互に演じながら満州でともに働いていた。」(P161)
◎志村は役人・外交官ではなく、また笠井が役人になったときには千畝は日
本に帰国しており、3人がともに働いたことはない。
×「笠井(千畝のハルピン学院の後輩)は一九三八年、満州から直接、ベ
ルリンに派遣された。彼(笠井)は大戦期間中、駐ドイツ満州国代表とし
て勤務し・・・」(P161)
◎笠井はハンブルグ総領事館に高等官試補として派遣された、9人の館員の
中の1人で、最年少であった。代表者は安集雲である。
×「大島(浩)は千畝より、ほんの数歳年長であった。」(P163)
◎大島は1886年生まれ、千畝は1900年生まれ。14歳違い。
×「ナチスはユダヤ人の国外移住を、一九三九(昭和十四)年、第二次世
界大戦が始まった後でも、かなり奨励していた。・・・要するに彼らがいな
くなればいいと考えていた。」(P171)
◎ドイツやオーストリアなどゲルマン民族の住んでいる地域からは追放したが、
ポーランドのユダヤ人は労働力確保として国外への移動は禁止されていた。
杉原研究の場合は、この点を区別すべきである。
×「一九三八(昭和十三)年、パリの日本大使館は、千畝にある秘密任務を
与えた。そのすぐ後に、彼はフィンランドに出発している。」(P187)
◎1937年9月には既にフィンランドに着任しており、パリには行っていない。38
年パリの杉村大使から本省に、千畝を諜報員にとの要請があった事は事実で
あるが、廣田外相はこれを拒否した。この件を千畝は戦後になって知ったと手
記に書き残している。 (次回につづく)
★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第6回)
×「(北満鉄道譲渡に関し)当初、ソ連が要求した三億円より、はるかに
少なかったが、日本の最初の提示額を五千万円上回るものであった。
・・・」(P149)
◎ソ連の要求額は六億二千五百万円、日本の提示額は五千万円、決着は、
一億四千万円。結果的に九千万円上回っている。
×「その日の朝(1935年3月23日)、東京で調印式(北満鉄道譲渡)が行
われた。ソ連・日本・満州国の役人が出席し、将来について楽観的見
解を述べた。満州国代表は大橋(忠一)だった。出席者の名簿に大橋
の補佐(千畝)の名はない。(P149)
◎翌24日の朝日新聞一面トップにも満州国外交部科長として杉原千畝の名
前が掲載されている。正式名簿にないはずはない。
×「ソ連は、一九三五(昭和十)年に満州から撤退していたとき、満州と
の国境を流れるアムール河(黒龍江)沿いのビロビジャンに、ユダヤ
人自治区を樹立する計画を発表した。」(P152)
◎ユダヤ人自治区構想は既に1928年から実行されている。
×「彼(安江弘夫氏)は挑戦されているかのように喋った。<金の書に
は世界的に有名なユダヤ人の名前が記され、銀の書にはユダヤ人
に貢献した外国人の名前が載せられています。私の父は銀の書では
なく、金の書に入っています。・・・>・・・」(P155)
◎安江氏は質問されたことを答えただけで、『銀の書』については全く触れて
いない、とのことである。
×「これは奇妙な理論である。彼(安江弘夫氏)が言及しているのは、植
林のために基金活動をした、あるユダヤ機関のことで、そこでは寄付
金の額の代わりに金・銀の書に名前が記されることになっていた。われ
われの知る限り、この書(金・銀の書)は、その書に名前を入れられた
人物に歴史的評価をくだすものではない。」(P156)
◎金の書はシオニストの夢の実現に貢献した人々の名前を記録した書である。
植林基金のための記録もあるが、ユダヤ人を助けた人々の名前も記録され
ている。安江仙弘の場合は、ハルピンのユダヤ人会の推薦によりユダヤ人
の恩人として金の書に記されたのである。前記同様、取材に応じた人を嘘つ
き呼ばわりするとは失礼である。 (次回につづく)
「〈ムネオ名誉館長〉困った」![]()
「杉原記念館 館内写真取り外す」(中日新聞14.3.1.抜粋)
「正直言って困っている。無報酬で名前だけの名誉館長とはいえ、こちらから
依頼した手前もあるし・・・」。鈴木氏に記念館の名誉館長就任を依頼した赤塚
新吾町長は、当惑を隠さない。(中略)
町関係者によると当時「現職の代議士は生臭い」「もっと平和のイメージのあ
る人を」といった意見も一部にはあった。しかし、記念館建設当時、町が外務省
に助成金を求めたが「該当する制度がない」と断られた経緯があり、「今後に向
け、外務省に強い影響力のある鈴木さんへの期待感もあった」と、赤塚町長は
正直に明かす。
記念館長は町産業振興科長が兼務しており、名誉館長は文字通りの名誉職。
記念館建設費は「ふるさと創世資金」と岐阜県の補助金、それに全国からの寄
付金で賄っており「何らやましいことがなかったのが幸い」と言う町職員もいる。
「故杉原氏の古里困惑」![]()
「記念館名誉館長は鈴木(宗男)氏」(東京新聞14.3.1.抜粋)
・・・岐阜県八百津町が建てた「杉原千畝記念館」名誉館長を昨年5月から
鈴木氏が務めている。このため「人道と博愛という記念館のイメージを落とし
かねない」と、関係者は気をもんでいる。(中略)
鈴木氏は外務政務次官だった1991年10月、日本との外交関係樹立のため
リトアニアなどバルト三国への訪問に出掛ける際、杉原氏の遺族を外務省に
招いて、同省が杉原家と意志疎通を欠いていたことを陳謝。杉原氏の“名誉
回復”を44年ぶりに図った。同町はこれを理由に、無報酬の名誉館長就任を
鈴木氏に依頼した、という。
NGO排除問題で鈴木氏の関与が取りざたされて以来、記念館などに町内外
から「なぜ、鈴木氏が名誉館長?」と異議が続出。館内にあった鈴木氏の写真
は、2月初めに取り外された。
同町の赤塚新吾町長は思わぬ成り行きに頭を抱えている。
「リトアニア・杉原千畝氏の記念館 高い関心裏腹 はや財政危機」![]()
「無料厳しく、支援訴え」(福井新聞14.2.13.抜粋)
・・・杉原千畝氏の資料を保存した記念館が同国(リトアニア)カウナスに開館して
約1年半。しかし、入場料が無料で、民間基金と地元大学のみで支えている。
「人道と博愛」の記念館は、早くも財政危機に直面し、支援を訴えている。
旧日本領事館跡の建物を利用した記念館は、市街地やや外れの住宅街に
あり、訪問客を集める上で好条件ではない。だが、年間5ヶ月の通常開館期間
中、訪問客は日本人を中心に1日平均四十人。昨年はモスクワ日本人学校中
学部の生徒が修学旅行で訪れるなど高い関心を集めている。日本人だけでな
く、ユダヤ系の訪問客も年間約五百人に上る。
しかし、三階建の旧領事館建物は現在、別の所有者からの賃貸。館長は「家
賃に警備費用などを加えると年間六千ドル(約八十万円)は必要で、維持だけ
で精いっぱい。将来的に入場有料化をも検討せざるを得ない状況」と訴え、支
援を求めている。
『決断・命のビザ』の読書感想文が414万余編の中から選ばれ、高校
の部で「毎日新聞社賞」を受賞。![]()
「千畝から継承するもの」 (愛知県立瑞陵高校1年 阪野将司)〈抜粋〉
・・・僕は今夏も、千畝に関する一冊の本を手にした。寡黙な歴史の語りべの、
そして、僕が通う高校の大先輩の、声無き声を聞くために。
千畝は寡黙の人で、殊にも、後年人道的な行為として世界から賞賛されたユ
ダヤ難民への“命のビザ”発給に関しては、生前多くを語ろうとはしなかった。
しかし、ここに貴重な史料がある。亡くなる3年前、病床にあって書き残した
「千畝手記」である。本書には二百字詰め原稿用紙にして四十九枚分が収録
されており、八百津の「千畝記念館」で何枚かの肉筆原稿を読んだだけだった
僕は、そのまとまった量を胸を熱くしながら読んだ。わけても写真版で掲載され
たその一部からは、乱れた文字そのままに、千畝の逡巡ややるせなさが伝わ
ってくるその反面、また、病床にあってなお、事実を正確に書き残そうとする、
千畝いうところの「道義上の義務」を果たさんとの強い意志が感じられて、その
気迫に強く胸を打たれる。・・・
・・・「世界は大きな車輪のようなものですからね。対立したり争ったりせずに、
みんなで手をつなぎあって回っていかなければなりません」。千畝のこの言葉に、
僕は彼の理念を見る。そして、それこそが僕らの継承しなければならないものだ
と、今、強く確信する。 渡辺勝正『決断・命のビザ』(大正出版)
「3世代の家族 杉原さんがくれた」![]()
救われたユダヤ人の孫と千畝の孫が対面(毎日新聞14.1.27.抜粋)
・・・杉原千畝の孫たちと助けられたユダヤ人の孫が26日、新宿区のホロコ
ースト教育資料センターで対面した。ユダヤ人の孫は、オーストラリアで弁護
士をしているダニエル・グリンバーグさん。ポーランドに住んでいたダニエルさ
んの祖母ドラさん(88)は、迫害を逃れるため杉原さんからビザ発給を受け、シ
ベリア大陸を横断して41年に日本にたどり着いた。当時ダニエルさんの父ロバ
ートさんを身ごもっていたドラさんは神戸で無事出産した。
・・・対面したダニエルさんは「人間の行いが意外な影響を広げることを実感
した」と語った。孫の中村まどかさんは「祖父は人間味のある人だったと子供
に伝えていきたい」と話した。
(同内容の記事が産経、日経、読売、他に掲載された)
「ビザ発給なければ、私はいない」 ![]()
ユダヤ人夫婦の孫、千畝の古里訪問(読売新聞地方版14.1.16.・抜粋)
「もし、杉原氏が祖父母にビザを発給してくれなかったら、私はここにいない」
・・・杉原千畝氏から日本通過ビザを受け、生き延びたユダヤ人夫婦の孫が
(ダニエル・グリンバーグさん・弁護士・オーストラリア在住)、15日、婚約者と
ともに杉原氏生誕の地・岐阜県八百津町にある記念館などを訪れた。
・・・ダニエルさんの祖父母は大戦が始まるとポーランドからリトアニアに脱出。
杉原氏からビザを発給され、1941年1月、ウラジオストクから日本に入った。
神戸市の国際病院で、ダニエルさんの父ロバーツさんが生まれ、戦時中に渡
豪し永住した。
・・・昨年、オーストラリアの新聞に人道の丘公園の記事が紹介され、祖父母
の足跡をたどろうと来日した。記念館に入ったダニエルさんは、「杉原さんに感
謝している。杉原さんの好意は今も続いている」と話し、「ほとんどのユダヤ人
が殺された。グリンバーグ家三代の命があるのは、杉原氏のおかげ」と感
動を新たにしていた。
「日本の米国支援は杉原千畝に通じる」 ![]()
「60年前」「9・11」・・・2度の恐怖を語る。(産経新聞14.1.9.夕刊・抜粋)
昨年9月11日の米中枢同時テロ発生から、まもなく4ヶ月が経過する。「あの
日、ニューヨークの世界貿易センタービルの中継映像をテレビで見て、子供の
ころ、ナチス・ドイツの戦車が自宅を襲ってきた“恐怖”がよみがえった」。
1933年にポーランドのユダヤ人家庭に生まれて、ナチス・ドイツの迫害を受
けたが、日本人外交官の杉原千畝氏が発給した通過ビザで生き延びるチ
ャンスを得たという、米シカゴ・マーカンタイル取引所名誉会長のレオ・メ
ラメド氏がこのほど来日、生涯で味わった2回の恐怖体験について語った。
・・・日本政府が今回は、タリバン政権に対抗する米国の同盟国として通常の
やり方を曲げてまでタリバン攻撃を支援してくれたことを高く評価する。このこと
はリトアニア領事だった故・杉原千畝氏が本省の意向に反してまで、戦時中に
迫害されていた何千人というユダヤ人に日本の通過ビザを信念で発給したこと
に通じる。
・・・ナチス・ドイツはわずか7日間でポーランドを制圧した。私の両親は私を連
れ、制圧前の最後の夜汽車に乗ってリトアニアに逃れた。それが2年間にわた
る逃亡生活の始まりだった。リトアニアの日本領事館には何千人ものユダヤ人
が連日取り巻いていた。日本の通過ビザを発給してくれるとのうわさが広がった
からだ。
何日も並んで父母がビザを受け取ったときの喜びようが、今も目に浮かぶ。
・・・杉原氏は5千枚以上(正しくは2千数百枚)のビザを手書きで発行したが、
それは純粋な人道主義的な信念からの行為であり、杉原氏自身が得られるも
のはなにもなかった。世界がナチス・ドイツの行為に沈黙を守っていたときに、
危険を冒してまでユダヤ人を救った杉原氏こそ、輝かしい英雄であると考えて
いる。
・・・のグリーンスパン議長が、ある時、私に言った言葉がある。「もしも、
杉原千畝がいなかったら、メラメドも、金融先物取引も、デリバティブも生まれ
ておらず、1980年代後半に米国で経済恐慌が発生していたかもしれない」とい
うのだ。
・・・杉原氏は私に人生のヘッジ(リスク対策)を与えてくれたと感謝している。
★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第5回)
×「1940年代の半ば、ワシントンとロンドンを基地とする連合国の暗号
解読班には、ポーランド出身者もいた。ここで、日本の決定版の暗号
(紫)が解かれた。その結果、連合国側の諜報担当者に、カウナスで千
畝がどういう活動をしていたかの情報が入ることになる」(P144)
◎ポーランドと日本が組んで、ソ連の暗号を解読したが、ポーランド人が連合
軍に加わり、日本の暗号を解読した記録はなく、無関係である。また、千畝は
40年9月5日にカウナス(リトアニア)を出国し、プラハ、ケーニヒスベルグを経
て、41年にはブカレストに赴任している。40年代半ばのカウナス情報はあり
得ない。.
×「東清鉄道の買収・・・東清鉄道をめぐる状況は、一触即発の危険な
状態にあった」(P145)
◎清国が没した後、「東清鉄道」は「東支鉄道」に改名された。さらに1932年
満州国建国後は、正式には「北満鉄道」と改名された。したがって杉原が携
わったのは「北満鉄道の買収」である。歴史書と銘打つなら時代の変化を明
確にすべきである。
×「1946(昭和21)年に、東郷(茂徳)は東京の巣鴨拘置所で、この交
渉(北満鉄道交渉)につい書いている」(P146)
◎死期を悟った東郷が、1950年1月から「時代の一面」と題して手記を書い
たものであるが、拘置直後の46年に書いたものではない。
×「しかし、と東郷は強調する。<1933(昭和8)年6月の朝、満州国外
交部ハルピン事務所の杉原所長に苦情を申し立てたとき、ソ連は別の
大きな問題を・・・>」(P147)
◎巣鴨拘置所で書いた東郷の記録には、杉原に触れた部分は全くない。史
料の捏造である。 (次回につづく)
★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第4回)
×「1931年9月、千畝はハルピンにいた。その時期・・・満州国の官吏で
もあった」(P123)
◎1931年9月には満州国はない。建国は1932年3月である。
×「1931年9月に起こった満州事変は、なにも特別に暴力的だったわけ
ではない。日本国内でも大臣の暗殺計画や暗殺事件が頻発していた
し、その後も起こった」(P123)
◎満州事変は国際的事件であり、国内の暗殺事件と同一視することは、問題
である。
×「彼(千畝)は忍耐して、そういう連中(軍国主義者や外務省内のその
種の同調者)との関係を保っていたかもしれない。彼が頻繁に仕事を変
えているのは、その証しになると思われる」(P126)
◎「外務省入省以来、上司の要望により、一時期満州国外交部に転属になっ
たが、戦後外務省を退職するまで、外交官である。仕事は変えていない。
×「1940年、外務次官だった大橋は、カウナスから送られてくる千畝の
電報に目を通していた。彼は受け取った電報類に、自分の頭文字を残
している」(P138)
◎カウナスからの電報のほとんどは、大橋が外務次官になる前のものであり
大橋のサインのある杉原電報は、1通も存在しない。外交史料館確認。
×「1920年・・・日本はロシアの暗号解読方をワルシャワ防衛軍に教え、
封鎖を破るのに成功させた」(P144)
◎記述が逆である。ポーランド軍の少佐が来日し、ソ連軍の暗号に関する知
識を日本参謀本部に教授した。日本がポーランドに教わったのである。
(次回につづく)
◆劇団四季「異国の丘」に杉原の挿話◆
「ミスター杉原は、夜も寝ないでユダヤ人のためにビザを書いてくれました」
「私の父は、杉原千畝のビザで助けられ、上海に来ました。これからアメリカ
に行くのです」
上演中の劇団四季の新作ミュージカル「異国の丘」(浅利慶太企画・脚本・演
出)第2幕で、杉原千畝が「こんな立派な日本人がいた」という挿話で紹介され
ている。シベリア抑留中の主人公「九重秀隆(近衛文麿元首相の長男・文隆が
モデル)が、日中戦争のさなか敵国蒋介石の姪・愛玲と恋に落ち、共に日中和
平に献身する日々を回想しながら、無念の死を遂げるストーリーで、恋愛場面
はフィクションであるが、他の歴史背景は概ね史実に基づく構成になっている。
1銭5厘の赤紙で召集され、戦後厳寒のシベリアに抑留された兵士たちの苦
痛・無念さ・悲しみが、抑えた調子で語られており、俘虜の物語というやや暗く、
仕立てにくい素材が分かりやすく,若い人にも好かれるミュージカルに纏め上げ
られている。先の戦争の悲劇を風化させてはならないという意気込みが感じら
れ、一見に値する作品である。
浅利慶太氏は、プログラムの「1銭5厘の視点から」で、「私は単純なる反戦論
者ではない。戦う必要があるときは命を捨てることも受け入れる。しかし、戦争
は永く多くの悲劇を生む。戦争を決断するとき、指導的立場にある人は、最後
の最後まで戦争を回避するよう努める責任があり、和平工作を模索するときに
も、大きな勇気と決断が必要とされるはずだが、日中戦争から太平洋戦争に至
るまでの高級軍事官僚の行動には、無能・無責任・非人間的な思い上がりしか
見られず、この民を軽んずる官僚主義が、過去も今も日本人の社会に宿る病
となっていることを思うとき、鳥肌が立つ」と述べている。
また、「我々の民族は、20世紀に大きな悲劇を経験した。この歴史は絶対に
語り継がなければならない」とし、これを新世紀第1作の主題に据えている。
思えば、杉原はソ連との「北満鉄道」買収交渉で赫赫たる成果を揚げ、ソ連
通の第1人者と見なされ、更なる出世を目前にしたとき、手記に記したように
「傲慢な職業軍人の無責任な態度」に嫌気がさし、満州国外交部ロシア科長の
席を捨てて帰国している。(『決断・命のビザ』)。このときの反骨精神が、後の
リアニアでの避難民に対するビザ発給に繋がる訳だが、彼のような骨太の人
物がもっといたなら、あの戦争は違った形になっていたであろうと、改めて考
えさせられた。 好評につき、2月10日まで公演延長 (脇田武志)
★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第3回)
×「満鉄には有名な二人の官僚がいた。・・・松岡洋右・・・東郷茂徳で
ある」(P73)
◎東郷茂徳は満鉄に籍を置いたことはない。
×「好水(父)が朝鮮に渡ったとき、家族は八百津に残り、豊秋と千畝
は地元の学校に通うことになった」(P74)
◎父親の転勤のため、一家は八百津に住んだことはない。したがって地元
の学校に通ったこともない。父の渡朝後は名古屋の官舎で暮らす。
×「(中学卒業後)の2年間をふくめ、彼(千畝)はずっと父親とは別居し
ていた。その間、この父と子は、かなり険悪な関係にあった」(P74)
◎千畝は中学卒業後、すぐにソウルに渡り、1年間家族と暮らす。受験に関
しての意見の相違はあったが、父は千畝に期待し、仲が良かった。
×「彼(千畝)も植民地官吏の卵として歩み出そうとしていた。しかし、彼
はそれ以外の者になろうと考えていた。・・・偉大な教師として認められ
ようと」(P79)
◎留学試験合格以前は英語教師を目指していたが、合格後は外交官以外の
ものになることは考えていない。
×「彼(千畝)は野球に熱中していた。ハルピン学院の野球部は・・・寒い
ハルピンの野球シーズンは短く、千畝がハルピン入りした年(1919年10
月)には試合に出られなかった」(P79)
◎千畝はアルバイトに追われ、野球などしたことはなかった。また当時ハルピ
ン学院はなかった。
×「到着した晩秋には、スンガリー(ハルビン市内の河)が凍結しており、
運動好きの彼はアイスホッケーを楽しんだ」(P79)
◎千畝の寄稿文に寄ると、当時のことを「北満のこの地においても、まだ温か
く非常に散歩に適していた」と記している。この年は特に温かかったようである。
スンガリーが凍結するのは、年明けからである。 (次回につづく)
★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第2回)
×「杉原リストが千畝の行為を批判し、彼を処罰したといわれる外務省
の書庫に、正しく保管されていた事実は何を意味するのであろう」(P15)
◎特別な意味はない。1941年2月3日に松岡外相の訪独が決定した。翌2
月4日に急遽、松岡は千畝にリストの提出要請の電報を打っている。ビザ発
給後半年も過ぎているこの時期に慌てて提出させたのは、ドイツ側の反応を
危惧した松岡が、訪独の準備として杉原ビザを把握しておくためである。
外相からの要請で提出された書類を、本省が保管するのは当然である。
×「私は何度か、さじを投げかけた。千畝本人の手紙や日記、個人的記
録がどうしても出てこない」(P21)
◎著者は新聞のインタビューで1000人に取材したと応えているが、最も重要
な幸子夫人に正式な取材をしていれば、杉原家に千畝の手紙、日記、手記、
メモ、千畝宛の書簡など保管されていることが分かるはずである。
×「その年(1919年)、千畝は第1回生として入学(ハルピン学院)する」
(P66
)
×「(1919年)11月1日から始まる2学期に間に合うよう、10月6日に到着
した。寮に落ち着き、制服・制帽を支給された」(P78)
◎千畝がハルピンに渡ったときは、ハルピン学院はまだ開校されていない。
当学院の創立は翌1920年9月24日であり、寮も制服・制帽もない。
×「普通、学生は学年の始業時に就学するが、ここの学則では、能力の
ある者はこのような例外を認めていた。・・・半年前に勉学を始めたほ
かの学生に合流できると判断されたためであろう」(P78)
×「千畝が卒業したとき、学院にはまだ学則がなかったためか・・」(P91)
◎千畝が入学するときは学則で途中就学が認められたとし、卒業時にはまだ
学則がなかったとは、どういうことか。また、無い学院で合流はできない。
×「彼はたまたま7月16日に行われる試験の告示を新聞で・・・」(P76)
×「それは(留学試験の告知)外務省が出したもので、〈海外留学の給費
生14人募集〉と表題がついていた」(P76)
×「もし千畝がただヨーロッパ文化にあこがれていただけなら、1番人気
があったもの(英語、ドイツ語、仏語)を選んでいただろう」(P77)
◎1919年5月23日の官報で確認すると、試験日は7月3日、18人募集、英語、
独語、仏語以外の募集と記されている。 (次回につづく)
★ヒレル・レビン教授著『千畝』(清水書院刊)を追及(第1回)
×「日本政府は至急電を送っていた。〈カウナス領事館発給の査証所持
のユダヤ人が満州を通過、日本に到着しつつあり。本省が繰り返し伝
えし指示にもかかわらず、なぜ、かほど多数のユダヤ人が正式査証を
認められしや〉」(P10)
◎このような電報は存在しない。史料の捏造である。杉原ビザ所持のユダヤ
人たちはウラジオストク経由で敦賀に上陸した。杉原ビザは日本通過ビザ
であり、満州国は通過できない。
×「シベリア鉄道や満州鉄道の沿線に散らばっていた日本とソ連の役人、
政治家、国境警備官などの間で、このヴィザ発給者が千畝だと悟った
多くの者が・・・」(P16)
◎杉原ビザには、シベリア鉄道でウラジオストク経由、敦賀に上陸と記入され
ている。日本通過ビザで満州国に入り、満州鉄道に乗ることはできない。事
実、リトアニアからの避難民で満州国を通過した者は皆無に等しい。
×「千畝と豊秋は、木曽川の川岸に座って鵜匠が鵜を使って鮎を捕るの
をあきずに見ていた」(P33)
×「杉原家の兄弟たちは、八百津ではそこそこの生活水準にあったよう
である」(P35)
×「食肉組合八百津支部が主催する会合などは、杉原兄弟にとって特に
魅力的なものだった」(P36)
◎木曽川の八百津町地域では、現在まで鵜飼が行われたことはない。鵜飼は
犬山下流で行われていた。また千畝は八百津生れではあるが、父親の転勤
で八百津に住んだことはない。当時、食肉組合もなかった。
(次回につづく)
(杉原千畝研究会)
早稲田が生んだ偉人
杉原千畝との出会いは、1997年「棚田百選」のひとつ、岐阜県八百津
町北山を訪ねた折のことである。
名鉄八百津駅前からタクシーに乗り、北山までというと、「杉原さんの
取材ですか」と尋ねられた。私の出で立ちによるものと思ったが、杉原
さんが誰なのか、今度はこちらから尋ねると、なんでも戦争の時たくさん
の外国人を助けた人というだけで要領を得なかった。しかし、すぐに杉
原千畝であることに思い至った。後で知ったことだが、北山は杉原の生
母の実家があり、ときどき取材のため訪れる人がいるのであろう。この
時は棚田の調査だけを行い、引き上げた。
東京に帰ってから、杉原千畝の名前が妙に気になるようになった。千
畝とは棚田の重なり、生母が目にしていた北山の棚田のことではないか
と。それから先は確かめようもなかったが、99年6月号の『早稲田学報』
に『早稲田の誇り杉原千畝」という記事が巻頭を飾っているのを見た。
記事は、その功績に対して戦後帰国した杉原を免官した国も、出身者
として十分に遇していない大学も冷たすぎるという内容。早速、筆者の大
正出版社長・渡辺勝正氏に電話をかけ、名前のことを伝えると、ひどく関
心をもたれ、藤沢市在住の杉原幸子夫人に確かめてみるとのことであっ
た。
しばらくして、執筆中の『真相・杉原ビザ』の草稿と手紙が送られてきた。
夫人に尋ねると、名前の由来はわからないが、十分に考えられるとのこ
と。草稿には、「千畝というユニークな名前」の見出しで、税務署員であっ
た父・好水が、妻・やつの実家の南側に、千畝の名にふさわしい立派な
千枚田(棚田)が広がっていることにちなんで届け出たのではなかろうか
と書かれていた。
2000年3月、このことを確かめるために北山を再訪し、千畝の母親や
つの実家を訪ねると、納屋で作業をされていた当主の岩井錠衛さんと奥
さんが応対してくださった。
やつは錠衛さんの祖父の妹に当たるとのこと。父親の好水も北山出身
で、もともとは岩井姓であったが、町内の杉原家に結婚時に養子に入り、
姓が変わった由。名前の由来については新しい情報を得ることはできな
かったが、父母が北山の棚田を原風景として育ち、この地で千畝が生ま
れたとすれば、推測どおりかもしれないと思った。
岩井家は集落の西の外れにあり、背後は杉林、前面には棚田が広が
っている。玄関前の庭に立つと、北山の棚田がほぼ一望できる。
棚田は、比較的緩い斜面に長い畦を気持ちよく伸ばし、緩やかな曲
線をつくり出している。その畦は三方から盆地底に向かって収斂し、下
のほうは折り重なって見える。
背後は杉林、前面に広がる千枚田の景観は、まさに杉原千畝の名前
どおりではないかとあらためて思った。
この原風景が杉原千畝の博愛の精神を育て、6千人を超えるユダヤ
人を救ったとすれば棚田はユダヤ人の救世主ということになるのでは
ないだろうかと想像を膨らませ北山を後にした。
(2001・12号 『早稲田学報』抜粋 中島峰広)
「歴史の証言 肉声テープ寄贈」 ![]()
「第二次大戦中、日本の通過ビザを発給し、ナチスの迫害から多くの
ユダヤ人を救った元リトアニア領事代理・故杉原千畝氏が、ビザ発給
当時を回顧した未公開の録音テープが、古里の岐阜県八百津町に届
けられた。テープからは、国の方針に反して、ビザを発給した覚悟が伝
わってくる。杉原氏の肉声による証言テープはほとんどなく、貴重な資
料になりそう」 (元フジテレビの萱場道之輔氏寄贈・
H13年11月11日 中日新聞朝刊)
【杉原氏の肉声テープの内容抜粋】
1977年8月4日モスクワにて、萱場氏インタビュー
〈ポーランド領から逃げてきた人たちだと思った。西ポーランドのガレ
シアのほうから、前年にドイツなってしまったから、ユダヤ人は逃げ回
っていた。それからビリュニスを通ってどんどん寄ってきた。ビリュニス
で日本領事館がカウナスにあることを聞いて領事館に雪崩をうって押
し掛けた。私はちょうど領事館引き上げ命令をソ連政府から受けてい
るので、家具をかたづけなければならない。・・・・・・そこへ流れ込んで
きたわけで、「行くところがない。日本を通ってよその国へ行くから通
過だけのビザを下さい」と頼んできた。東京に聞いたけれど、東京
はガンとして応じない。ノータッチでいろと言うが、宿舎の窓に何千
人と集まっている。〉・・・中略・・・
〈終戦後、日本に帰ってきて外務次官の岡崎氏が来てくれて(注・直
接あったという意味)「ご存知の件で問題があった。文句を言わずに暇
をとってくれ」と言うから「分かった」。退職手当3,000円、以後自力、
独力でずーと頑張ってきた。〉・・・後略
杉原千畝のヴィザ発給をめぐる誤解 ![]()
杉原千畝像を歪めようとする動きがある。杉原氏は「日本政府のユ
ダヤ人保護政策に従ったまで」という説がそれである。
日本政府のユダヤ人保護政策というのは、昭和13年12月6日の五
相会議( 首相・外相・蔵相・陸相・海相から構成された当時の最高国
策決定機関)において「ユダヤ人対策要綱」を決定し、ユダヤ人を他
の外国人同様公正に取り扱うと決めていたことを指す。筆者は当該
期、ナチス・ ドイツと防共協定を結んでいたにもかかわらず、ユダヤ
人を差別しないと定めた要綱は重要であり、同要綱によりユダヤ人
差別を否定した日本政府の姿勢は、評価すべきだと思っている。
しかし、そこから一足跳びに杉原氏のヴィザ発給は「日本政府のユ
ダヤ人保護政策に従ったまで」と見なすことには同意できない。なぜ
なら現在外交史料館に残っている電報に、発給条件に則ったヴィザ
を命じた本省から、杉原領事代理宛の訓令電が存在しているからな
のだ。
このように書くと、読者の中には、一方でユダヤ人を差別しないとし
て、一方でヴィザを出すなという政府の方針が、著しく矛盾しているよ
うに感じる方も、いらっしゃるのではなかろうか。
しかし、ここで注目すべきは本省からの訓令電の内容である。昭和
15年8月16日発、松岡洋右外相より在カウナス杉原領事代理宛電報
第22号には行き先国が確定していない 、ないしは十分な旅費を所持
していない者に対して、ヴィザを発給してはならないとあるのみで、ユ
ダヤ人に対してヴィザを発給してはいけないとは一言も書いていない。
要するに問題はユダヤ人に対して発給するか否かではなく、難
民化して日本から出られなくなるような人々にヴィザを出すことの
可否である。杉原ヴィザの問題を対ユダヤ人政策の枠組みだけ
で見ることは非常に危険だ。
本件にはもう一つ難民に対する人道的対応の問題が潜んでい
るからである。それゆえに杉原氏は「日本政府のユダヤ人保護
政策に従ったまで」ではなく、難民に対するヴィザ発給にあたって、
政府の方針に背いても、ヴィザを発給し続けた人物と位置づけら
れる。すなわち、「ユダヤ人対策要綱」の存在により、杉原氏の業績
の価値が損なわれることは決してないのである。(次回につづく)
(上智大学『ソフィア』196号 抜粋 白石仁章)
驚愕すべき図書『千畝』 ![]()
杉原千畝像を歪めようとする人々が教典の如く重視している図書が
存在するので、その問題を採りあげたい。ボストン大学のヒレル・レヴ
ィン教授が書いた『In Search of Sugihara』という図書で、『千畝』(諏訪
澄・篠輝久監修・訳、清水書院)のタイトルで翻訳もされている。レヴィ
ン教授が多くの国を訪れ、史料収集と関係者へのインタヴューに努め
た成果だというので、筆者も大いなる期待をもって同書を繙いた。とこ
ろが、その期待は、驚愕に変わってしまった。
ともかく歴史的事実に対する誤認、実証のともなわない思い込みによ
る記述が目白押しなのだ。問題点を発見するたびに付箋をはさんでい
たのだが、ある日筆者が非常勤講師をしている大学の学生たちが、筆
者が所持していた『千畝』を目にし、あまりにもたくさん付けられた付箋
の意味を尋ねたので、「この頁全てに誤りがあるのだよ」と教えると、驚
き、呆れ果てていた。彼女らが思わずつぶやいた「このような間違いだ
らけの本が売られていていいのですか?」という言葉が忘れられない。
さらに、筆者が杉原氏ご遺族、さらに大連特務機関長として極東在住
ユダヤ人たちの地位安定のため奔走した、故安江仙弘陸軍大佐のご
長男安江弘夫氏に確認したところ、インタヴュー内容として彼らが話し
てもいないことが書かれたというのだ。これは明らかに「捏造」である。
しかも、「捏造」されたインタヴュー内容を読んで、幸子夫人は体調を崩
され寝込まれたとも聞いている。
また、ここで事実誤認と若干ニュアンスが違うが、どうしても指摘してお
きたいことがある。それはレヴィン教授の記述には、ある種の悪意すら
感じさせる記述が散見することだ。ここで二例のみ指摘することとしたい。
第一例は、『六千人の命のビザ・新版』において幸子夫人自身が、杉
原氏との結婚を決意した際のエピソードを次のように記している。
「どうして、私と結婚したいのですか」と尋ねると
「あなたなら外国に連れて行っても恥ずかしくないから」という返事が
返ってきたので、結婚を決意した・・・。
ところが、これに対してレヴィン教授は
「事実として、彼女が千畝に何を感じたのか、彼女は言わない。これ
が激しい恋愛結婚だったのかどうかも、はっきりしない。彼女は外交
官の妻として海外に行き、そこで住み、彼女のいう〈華やかな生活〉
を送るという考えが気に入ったらしい」
と記しているのだ。(筆者注 幸子夫人はまともなインタヴューを受けて
いないそうだ。また著書に〈華やかな生活〉という記述はない)
この記述は幸子夫人、ひいては杉原夫妻に対するある種侮辱とも言
えるのではなかろうか。
第二例は、安江大佐のご長男弘夫氏へのインタヴュー内容を紹介し
た際に、弘夫氏の談話の前にわざわざ「彼は子供の頃に父親と別れて
いる」という一文を付し、まるで彼の談話に信憑性がないように書いてい
るが、安江大佐がソ連軍に拘引され、弘夫氏が父親と別れたのは彼が
二十一歳のときなのだ。二十一歳を子供とはとても言えない。
わざわざ時間を割いてインタヴューに応じてくれた相手へのこの振る
舞いは一体何なのであろうか。
(上智大学『ソフィア』196号 抜粋 白石仁章)
リトアニアでの桜の植樹
平成13年10月2日、杉原千畝生誕100周年の記念行事の一環として
リトアニア共和国の首都ヴィリニュスにて祭典がくり広ろげられた。私
は桜の記念植樹式と日本・リトアニアの文化交流祭に参加した。
式典は、杉原の母校早稲田大学が建立した杉原千畝顕彰碑が、同
校佐藤副総長により除幕されたあと、杉原幸子未亡人、アダムスク・リ
トアニア大統領、同国関係者、現地日本大使らの挨拶が続いた。
日本からの参加者130名の他、現地の一般参加者、楽隊、民族衣装
の女性合唱団など約600名がつめかけた。少年団が放った折り鶴を付
けた風船が、雨上がりの空に消えたあと、アクロバット飛行のヨーロッ
パ・チャンピオンによる祝賀フライトがあり、式典は最高潮に達した。夜
は打上げ花火大会もあり、国を挙げての歓待ぶりであった。
旅行参加者と日本の有志からの基金で寄贈された桜の苗木は、ヴィ
リニュス市の中央を流れるネリス河畔の公園、同市のスギハラ通りと、
カウナス市の元日本領事館(現・杉原記念館)他に、染井吉野200本、
仙台枝垂れ桜30本が植樹された。
式典のあと、同市立タウンホールにて国際写真交流会と軽食パーテ
ィーが催され、同夜には国立オペラ劇場において「ジャパン・リトアニア・
ナイト」と銘打った文化交流があり、両国の友好を深めることに役立っ
ていた。
リトアニア大統領は、「杉原氏が、自分の地位と命を引き替えに、勇
気ある人道的な行動を行ったことに感動している。この国の人も見習
うよう。また、彼の行為をこれからも後世に伝えていきたい」と挨拶した。
この植樹祭に参加して感じたことは、リトアニア人、ユダヤ人に関係
なく、現地では、杉原の人道的な行為・勇気を称え、親から子へと語り
継いでおり、そこには宗教的、人種的な偏見など、ひとかけらも見受け
られないことであった。
杉原がカウナスでビザを発給した1940年から既に61年たっている。
1947年に帰国した杉原は免官させられたが、2000年10月10日外務省
がそれまでの非礼を遺族に詫び、外交史料館に杉原の顕彰プレート
を設置した。この日は日本とリトアニアの新たな外交関係が樹立され
た10周年記念日に当たる。それまで半世紀以上にわたって、杉原家
と外務省とは断絶状態であった。
長年にわたる日本国内の鬱積した不可解な動きに比べ、リトアニア
の人々の行動は、屈託がなく清涼感を覚えた。
(長野県人会会誌『リンドウ会』抜粋 脇田武志)